閣下は、私が其の女を最早や決定的に「妻」と認定して居る事を、若しや早計と批難なさるかも知れません。醜悪な妻が有りもしない衣裳を何処からか引き出して来、斑《まだ》らな髪を真点《まんまる》な丸髷に結い亭主の留守を見済ませて、密夫と逢曳を遂げるなどと云う事は、或いは不可能な又は奇蹟かも知れません。が、私は付け難い判別にさ迷うよりは、其の焦燥を捨てていっそ妻と決定して了った方が楽だったのであります。不時の闖入者《ちんにゅうしゃ》を見て二人は、はっと身を退けましたが、私はむらむらと湧き起る憎念の抑え難く、房枝っ、と叫び態、握って居たスティックを右手に振り上げ呆気にとられて茫然たる妻の真向眼がけて、力委せに打《ぶ》っ叩いたのであります。男は、何事か、私の無法を口の中で詰り乍ら、無手で私の体に打つかって来ましたが、私の右手は殆んど機械の如き正確さで第二の打撃を相手に加える事に成功しました。呀《あ》ッと面を押えて退《の》け反《ぞ》った時に、今度は妻の方が再びもぞもぞと起き上る気配なので、我を忘れて駈け寄るが早いか、体と云わず顔と云わず滅多矢鱈《めったやたら》に殴りつけました。寔にそれは忘我の陶酔境でありまして、右手が疲れると左手に持ち直し、息の根絶えよと許りスティックの粉々に折れ尽きる迄殴り続けたので有ります。最初の裡くねくねと体を蠢《うご》めかして居た妻も、軈ては気力尽きてぐったり動かなくなったのを見済まして、私は悠然と落ちた帽子を拾い着崩れた着物の襟を合わせ、是でいいんだ、ふん、是でいいんだ、と呟き乍ら、一歩一歩念を押す気持で石段を下り、来懸る円タクを留めようと至極呑気な気持で待って居りました。
訝《おか》しな陽気だと思って居りましたよ、旦那、やっぱり風が出て来ましたね、と云うハンドルを握った運転手の声に、それ迄ウツラウツラ居眠って居た私ははっと気付いて窓の外を眺めますと、何処を通っているのか郊外の新開地らしく看板の並んだ商店街の旗や幟がパタパタ風に翻って居りました。車が動き出すと同時に私は苦痛に近い疲労を覚え、割れる様な頭痛と絞られる様な吐気に攻め立てられ、到底眼を開けて居る事に堪えられず其の儘崩折れる様に席の上に居眠って居たのであります。そしてそう云う肉体的変調が、閣下よ、持前の肉体痙攣――あの発作の前兆だったのであります。むん、そうの様だね、と曖昧に答え又ウトウト
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