如何なる錯覚を起してか、子供は兎も角妻迄が、あのおふささん迄が焼け死んだと云うのは[#「あのおふささん迄が焼け死んだと云うのは」に傍点]? 可笑しいので思わずニヤニヤし乍ら、嘘ですよ、嘘ですよ、私に女房は二人ありませんからね、何かの間違いでしょう、と言いますと、相手は私の顔を不思議想に凝乎黙って瞶めて居りましたが、多分此の頃から私を狂人扱いにしたらしいのです、――君は哀しくはないのかい、君は? 念の為にもう一度訊くが、君は高円寺一丁目の文士|青地大六《あおちだいろく》さんでしょ? ふん、ふん、そんなら焼死体は、君の家主の好意で三丁目の大塚《おおつか》外科病院に収容して有るから、早やく行って始末をして来給え、と殊勝らしく注告するのであります。私は益々可笑しくなりまして、刑事さん、私の女房は姦婦でして、昨夜或る所で男との密会最中を発見し、私が此の手で撲殺して来たのですよ、一応取調べて下さい、と云いますと、相手はぐっと乗り気に成って、一体それは何時頃か、と追及して参りました。私は大体の時間を割り出して、十一時過ぎだったと思いますよ、と答えますと、相手は一寸の間考えて居たが、急にいやァな苦笑いをし、変に憐愍の眼眸を向け、ふふふふ……何を云ってるんだ、君は、昨夜の火事は十一時頃から熾え出して十二時過ぎ迄消えなかったんだぜ、君はどうかしているよ、君は、同じ奥さんが二人居るなんて、そんな馬鹿な事があるもんかい、ささ、帰り給え、行って早く始末をせにゃいかんよ、と到頭私を署外へ追い出して了ったので有ります。
其の後の事は、多分閣下もよく御存知の事と思います。即ち其の日の朝刊は、二つの小事件を全然別個のものとして全市に報じて居たのであります。私は後々の為に其の二つの記事をスクラップして置きましたが、次に貼付して閣下の御眼に供する事に致します。
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高円寺の大火――昭和八年二月二十三日午後十一時頃、高円寺一丁目に居住する文士青地大六(30[#「30」は縦中横]歳)の外出中の借家より発火し火の手は折柄の烈風に猛威を揮って留守居たりし大六氏の内妻房枝(29[#「29」は縦中横]歳)及び一子守(2歳)は無惨にも逃げ遅れて焼死を遂げた。乳呑子を抱えた房枝さんの半焼の悶死体が鎮火後発見せられ、当の青地氏は屍体収容先三丁目大塚病院にて突然の不幸に意識が顛倒
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