は向いの三好野に喰い度くも無い汁粉の椀などを前に置いて、絶えず楽屋に出入する女に注視の眼を見張ったり、――斯う云う無為の夜が三日許り続きまして、遂に最後の夜、二月末の生暖い早くも春の前兆を想わせる無風の一夜――人眼を憚りつつ楽屋口に現われた妻房枝の、換言すればおふささんの紛《まご》う無き姿を発見する事が出来たのであります。……

 其の夜は、暖かい、――寧ろ季節外れの暖さでありまして、外套は勿論毛製のシャツなどかなぐり捨て度くなる様な不自然な暑いとでも謂い度い気温が、浅草中の歓楽街を包み、些も風の動かない為に凝乎《じっと》して居ても汗が滲み出る位で、さりとて何時寒く成るとも限らぬ不気味な天候なので、思い切り薄着になる事も出来ず、平素に増した人波に群集はむんむん溜息を吐き乍ら、人|※[#「火+慍のつくり」、第3水準1−87−59]《いき》れの中をぞろぞろ歩いて居るのでありました。妻は、雷門方面から伏眼加減に曙館の正面を通り危うく衝突しそうになる行人を巧みに避け乍ら、恰《あたか》も役者の楽屋を訪問する事なぞ少なくとも初めてでは無い事を証明する様に馴れ切った態度で、それでも流石一寸四囲に気を配ってから、軽く声を掛けると、首を出した楽屋番とも顔馴染らしく、其の儘するすると戸の内部に姿を消して了ったのであります。平素の身汚なさを尽《ことごと》く払い落し、服装から姿態から眼鏡迄、あの水々しい淫売宿のおふささんに成り済ませて……。楽屋口から差す灯を微かに半面に受けて、真白い横顔を薄暗の中に浮び上らせた女が、閣下よ、私の古臭い女房なのでありましょうか? 予期した事とは云い乍ら其の予期通りの現実が腹立たしく、憎悪と嫉妬[#「嫉妬」に傍点]の片鱗を覚え乍ら他方出来る丈苛酷な処置を施してやろうと、狂い上る感情を押え押えともすれば失われ勝ちの冷酷さを呼び起そうと、懸命に努力して居りました。それから約二十分の間、私は曙館の塀に身を潜めて妻と其の相手の現われるのを凝乎《じっと》待って居たのであります。逸《はや》る心を抑えようとすればする程、口腔は熱し二重廻しの両袖が興奮から蝶の羽根の如く微かに震動して居りました。乍然、閣下よ、それから二十分の後に現われた妻の情夫は、情夫と思われる人物は、――意外にも三村千代三ではありませんでした。寔に色の真白な女の如き優男ではありましたが、五尺三寸にも足らぬ小
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