は、此の陳情書を閣下の御屋敷の豪華な書斎の暖炉に向いつつ、半ば嘲笑を混え乍ら御読みの事でありましょう。そうして居られる閣下が、別の場所、例えば新橋《しんばし》何々家で盃を嘗め乍ら芸者と歓を共にして居るもう一人の自分が居るなどと想像する事は、余り気味の好い話では有りますまい。私自身とて斯くの如き事実には全く信を措かざる者であります。が、前陳のおふささんと房枝の問題を、どう解釈したらいいのでありましょう? 私は形式的に女と同衾《どうきん》し乍ら、果してそれが同名異人であるのか、房枝の早業か、将又《はたまた》ドッペルゲエンゲルの怪奇に由来するものであるか、――確めねば気の済まぬ気持に迄達して了ったのであります。それには女の言葉に依ればおふささん[#「おふささん」に傍点]は同じ家で密夫と逢曳《あいびき》の最中との事であるから、夜の白むのを待たず高円寺の自宅に取って返し、房枝の存在を確める事が一番近道で有ります。私は斯う決心すると、矢も楯も堪らず女の不審がるのも耳にせず起き上って着物を着換えました。乍然、閣下よ、何と言う不運で有りましょう、私は階段の降り口で、十五歳の折一度経験してそれ以来更に見なかった硬直発作を起し、仰向け態《ざま》に泡を吹いて顛落し、其の儘意識を失い、其の夜は肝心の疑惑を晴らす事が不可能に終ったのであります。

 如右《みぎのごとき》、奇妙な経験が動因と成って、閣下よ、私は疑惑十日の後、遂に妻房枝を殺害して了ったのであります。以下、錯雑した記憶[#「錯雑した記憶」に傍点]を辿り辿り、其の経路を出来る丈正確に叙述した上貴重なる閣下の御判断を仰ぎ度いと存じます。
 偖《さて》、それからの私は、妻の日常生活――些細な外出先から其の一挙手一投足に至る迄、萬遺漏無き注視の眼を向ける事を怠りませんでした。問題の眼鏡に就いて確めた事は云う迄もありません。所が、如何なる解釈を施す可きか、其の眼鏡は私が嘗て無造作に投げ込んで置いた通り、壊れ箪笥の曳出に元通り蔵って在るのでした。あの夜の妻の行動に就いて問い質した所、彼女は無論夜半外出した事も無く、近所の家から依頼された縫物を終ると其の儘朝まで寝入って居たとの返事を、何の憶する所無く淡々述るので有りました。若し房枝があの夜のおふささんで有るならば、私の硬直発作を目撃した筈でありまして、左様だとすれば到底斯くの如き平静な答弁は為
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