色に輝いて居ります。私は其の横顔を覗いて、思わずはあっと息を呑んで了いました。と云うのは、服装こそ異《ちが》えそれがカフェ時代の房枝の再現だったからで有ります。閣下よ、よくお聞き下さい。私は其処で、其の魔性の家で、私自身の妻を発見したのであります。是は断じて錯覚でも無ければ、所謂関係妄想でも有りません。ましてや虚言を吐く必要が何処に在りましょう? が、次の瞬間、ふん、莫迦莫迦《ばかばか》しい、今夜はどうかしてるんだナ、ふん……と心中呟いて、自分の率直な認識を否定して了いました、と云うのは、現在の妻が其の女程美しく装い得る筈が無いからで、如何にも房枝は女給仕時代並びに同棲生活の当初に於いてこそ経済的にも裕福であり、逞《たくま》しい程の肉体的魅力を全身から溢れさせて居りましたが、其の後の家庭的困窮|疲憊《ひへい》は残らず彼女から若い女の持つ魅力を奪い去って了い、一として私に関心を起させる秘密を失って居るのであります。而も最も根強い理由は、世間からは遊戯女《いたずらもの》の稼業の如く思われて居るカフェの女給仕を勤めた身ではあるが、女の中で是程貞淑な女は居まいと思い込んで居た房枝が、仮にも夜更けの淫売宿になど姿を現わす筈が無いと云う確信で有ります。妻房枝は、其の時刻ともなれば亭主の放蕩に女らしい愚痴《ぐち》を滾《こぼ》す事すら諦らめて了い、水仕事と育児労働と、――子供は生来の虚弱体質で絶えず腸カタルやら風邪に冒されて居て手の掛る事は並大抵で無く、更に内職の針仕事に骨の髄迄疲れ果ててぐらぐら高鼾《たかいびき》を掻いて前後不覚に寝入って居る筈であります。私は自分の莫迦らしい妄想を嘲笑《わら》い、何時の間にか眼の前で両手を確乎《しっかり》固めて居るので急いで其の拳を解き、ふう……と溜息を洩らしました。其の裡に室内の談合は旨く鳬《けり》が付いたものと見え、森《しん》と鎮まって居りました。女の事はどうしたんだろう。一つ催促でもして見ようか、と立ち上るなり悪く逆上して眼鏡が曇って居たので何心無く取り外し、二重廻しの袖でレンズを拭き始めた時に、私は再びはっと奇妙な一致に撃たれてふらふらと腰を落して了いました。室内のおふささんの懸けて居た淡褐色の金縁の日除眼鏡を反射的に思い泛べたからで、詰《つま》り、彼女の懸けて居る色眼鏡とそっくりの、而も金縁のそれを、私の学生時代新派役者や軟派のヨタモン
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