す。最初の裡こそ私は単なる好奇心を以て窺《のぞ》いて居たのでありましたが、閣下よ、次の如き内儀の吐いた言葉を突如耳にして、ギクリと心臓の突き上げられる様な病的な驚愕を覚えたのであります。内儀は眉をキリキリとヒステリックに釣り上げ、首垂《うなだ》れて居る男に向って斯う叫んだのでありました、――バラされない内に、へえ左様ですかと下手《したて》に出たらどうだい、女だからってお前さん方に舐められる様な妾《あたし》じゃないんだよ、ねえ、おふささん[#「おふささん」に傍点]?……
此の台詞《せりふ》は、普通に聞いたのでは左程の意味も感ぜられますまい。陰惨な荒《すさ》み切った淫売宿の内儀が此の位の啖呵《たんか》を切ったからとて些も不思議は無いので、私とても是迄場数を踏んで居りまして所謂殺伐には馴れて居りますから、何事か血腥《ちなまぐさ》い騒動が持ち上りそうな雰囲気に腰を浮かせた訳では有りません。私のギクリとしたと言うのは、其の言葉尻の、明らかに同席の今一人の女[#「今一人の女」に傍点]に賛同を求める為に吐いた※[#始め二重括弧、1−2−54]ねえ、おふささん※[#終わり二重括弧、1−2−55]と云う呼名を咄嗟《とっさ》に聞いたからでありました。おふさ、房枝、おふさ、おふささん――言う迄も無く私自身の女房の名を連想したからで有ります。閣下は、同名異人が居るではないか?――と仰言るかも知れません。元より房枝などと云う平凡な名前は東京中にても何百となく在りましょう。乍然《しかしながら》、私があの場合|恟《ぎょ》ッと衝動を受けたのは理屈ではありません。虫ノ知ラセと云うのは斯う云うのでありましょうか。普通の場合ならば平気で黙過する筈であるのに、異様な好奇心に燃えて其の女の顔を確め度いと云う衝動を覚えたのであります。私は腰を泛《う》かしそっと息を殺して其の女の姿が視野に這入る様二尺許り位置をずらせました。そうする事に依って女の側面の一部を窺う事が出来たのであります。髪を真黒な丸髷に結い地味な模様の錦紗の纏いを滑らかに纏い、彼女が芸者上りの人妻らしい女で有る事が直ちに想像され、チラリチラリと仄《ほの》かに視野に入る横顔の噛み付き度い程愛らしい鼻の上に淡褐色の色眼鏡が懸けられ、長火鉢の縁に肱を突き乍ら南京豆を噛じって居るのですが、其の為に袖口が捲れて太股の様な柔らかい肉付の腕が妖しい程真白い
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