両面競牡丹
酒井嘉七
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)常磐津《ときわず》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)三ヶ月|臥《ふせ》った
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#歌記号、1−3−28]
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奈良坂やさゆり姫百合にりん咲き
――常磐津《ときわず》『両面月姿絵《ふたおもてつきのすがたえ》』
一
港の街とは申しますものの、あの辺りは、昔から代々うち続いた旧家《きゅうか》が軒をならべた、静かな一角でございまして、ご商売屋さんと申しますれば、三河屋《みかわや》さんとか、駒屋《こまや》さん、さては、井筒屋《いづつや》さんというような、表看板はごく、ひっそりと、格子戸の奥で商売《あきない》をされている様なお宅ばかり――それも、ご商売と申すのは、看板だけ、多くは、家代々からうけついだ、財産や家宅をもって、のんびりと気楽にお暮しになっている方々が住んでいられる一角でございました。私の家は、そうした町のかたすみにございまして、別に、これと申すほどの資産もございませんでしたが、それにしても、住んでいる家だけは自分のもの――と、こういった気持ちが、いくらか、私たち母娘《おやこ》の生活を気安くさせていたのでございましょう。
母は小唄と踊りの師匠でございました。しかし、ただ今で申す、新しい唄とか、踊とかの類ではなく、昔のままの、古い三味線唄、いわば、春雨《はるさめ》、御所車《ごしょぐるま》、さては、かっぽれ、と申しますような唄や、そうしたものの踊りの師匠だったのでございます。母は別に、私を師匠にして、自分のあとをつがせる、という様な考えをもっていた訳でもございますまいが、子の私は、見まね、聞き憶《おぼ》えで、四つの年には、もう、春雨なんかを踊っていたそうでございます。そのころから、ずっと、母の手すきには、何かと教わっていたのでございますが、私が母の替りにお弟子さんを取るようになりましたのは、丁度、私が十七の春、とても、気候の不順な年でございましたが、ふとした事から、母が二、三ヶ月|臥《ふせ》った事が、きっかけになったのでございます。それからは母がよくなりましても、お子供衆のお稽古は私がいたしていたのでございます。その内に、何時《いつ》の間にか、母親は楽隠居、そして、私が全部お稽古をいたす様になったのでございました。しかし、何分にも、お稽古人はほとんど全部がお子供衆、月々の収入はたいした事もございませんでしたが、それにいたしましてもお子供がたのお稽古人は、いつも十四、五人もございましたので、私たち親娘は、ごく気楽に暮していたのでございます。
丁度、私がお稽古をする様になりましてから、半年あまりも経った頃でございましたでしょうか、私は、あの恐怖にも似た気もちを、今だに、忘れることが出来ないのでございます。それは、お稽古やすみの、ある霧の深い午後でございました。その二、三日も前から、お天気は、毎日のようにどんよりと曇って、低くたれ下った陰鬱な空が、私たちの頭を狂わさずにはおかない、というほどに、いつまでも、何時までも、じっと、気味悪く、地上の総《すべ》てを覆《おお》いかぶせていたのでございました。ところが、その日の、お昼すぎからは、思いもかけぬ濃霧が、この港の街を襲うて参ったのでございました。まだ、日は高いのでございますが、重くるしく、ずっしりと、空いっぱいに、たれこめた鼠色《ねずみいろ》の雲の堆積から、さながら、にじみ出るかのように、濃い、乳色の気体《きたい》が立ちならんだ人家の上を、通りの中を、徐々に、流れはじめたのでございました。私は、その頃、少しばかり買物がございましたので、三《さん》の宮《みや》の『でぱあと』まで出むいていたのでございます。買物と申しましても、別に、あの辺りまでわざわざ行かねばならぬ訳もなかったのでございますが、今になって考えますれば、たとえ、何の理由がなくとも、あの日、ああした場所まで、出かけるように、前の世から定められていたのでもございましょうか。……私は、『でぱあと』で、新柄の京染や、帯地の陳列を見せて頂き、かえりには、お母さんのお好きな金つば[#「金つば」に傍点]でも買ってあげましょう――と、かように考えまして、参ったので、ございました。
あのような日和《ひより》でございましたので、さすがに、繁華街にある、『でぱあと』の中も、人はまばらでございました。私は、まず、八階まで昇り、京染と帯地の陳列を見せて頂き、それから、七階、六階と歩いては、階段から降りて行ったのでございます。階段に面した側は、丁度、山手と
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