は反対になりまして、天井から、足もとまでがずっと、がらすの窓になり、そこを透して、ほど遠からぬ港の船のいくつかが、段階子《だんばしご》を降りて行く目の前に、朧《おぼろ》げながら浮んでくるのでございます。窓の向うには、なおも、魔物のような濃霧が、濛々《もうもう》と、何かしら不可思議なものとともに、流れて行くようでございます。漠然《ばくぜん》とした不気味《ぶきみ》さに小さな慄《ふる》えを感じながら、私は階段を静かに降りていたのでございました。と、七階から六階へ通じるところでございましたか、誰も人影はございません。階段の半分を降りきった、折り返しのところで、突然、下から、音もなく昇って来られた方と、危うく衝突する様になって、立ち佇《どま》ったのでございます。そして、ふと、対手《あいて》の方を見上げたのでございますが、その瞬間、われにもあらず、あっと、口の中で叫んだのでございました。それと、申しますのも対手は誰でもございません。私――ええ、間違いなく、私ではございませんか……。

 かようなことを申しますと、何を阿房《あほう》なことを、どうして、お前の他に、お前さんがありましょう。それは、他人のそら似というもの――と、お笑いになるかも存じません。それは、世間には、よく似た方がございましょう――私によく似たお方も、また、私が似ている方もおありになるでございましょう。しかし、似たと言うのは、あの場合、決して、正しい言葉ではございません。まさしく私が朝《あした》に夕《ゆうべ》に、鏡の中で見なれている、私自身に、相違ないではございませんか。私は、その瞬間、ぞっとして、背筋を冷たいものが走った様に感じたのでございます――瘧《おこり》の発作《ほっさ》にでもとらわれたような慄《ふる》えを感じて参りました。私でない私、そうしたもので、どうして、目に見えたのでございましょう。窓の向うには、『おりえんたる・ほてる』でございますか、巨大な、白亜の建物が、霧の海を背景に、朧げに浮んでおります。魔物のような濃霧は、窓がらすの上を這うように流れております。何か不思議なものが、いまさらのように、その中に見えるようでございます。そうした神秘的な、不気味な霧が、私の頭をかき乱していたのでもございましょうか。漠とした、しかし、たえ難いまでの恐怖におののき、烈《はげ》しく鼓動する胸を抱きながら、大きく目を見張っている私を振りむきもせず、その第二の私は、階段を音もなく昇り、かき消すように、姿を消してしまったのでございます。

     二

 恐怖にうちのめされ、慄然《りつぜん》たる悪寒《おかん》に身体を震わせながら、それからの四、五日間を、私は、自分の前に現われた自分の姿のことばかし考え乍《なが》ら、過ごしたのでございました。ご存じでもございましょう、常磐津の浄瑠璃《じょうるり》に、両面月姿絵《ふたおもてつきのすがたえ》、俗に葱売《ねぎうり》という、名高い曲でごさいまして、その中に、おくみという女が二人現れ、
常※[#歌記号、1−3−28]もし、お前の名は何と申しますえ
 ※[#歌記号、1−3−28]あい、私ゃ、くみというわいな
常※[#歌記号、1−3−28]して、お前の名は
 ※[#歌記号、1−3−28]あい、わたしゃくみと言うわいな
常※[#歌記号、1−3−28]ほんにまあ、こちらにもおくみさん。こちらにもおくみさん。こりゃまあ、どうじゃ。
 と、驚くところがございます。この一人は、実在の人物、そしていま一人の方は、悪霊《あくりょう》なのでございます。これと、同じ様に、私が見ました自分の姿も、怨霊《おんりょう》ではありはすまいか――私は、かようなことをも考えながら、おののいていたのでございます。それと申しますのも、私たちの土地では、昔からのいい伝えがございまして、自分の姿が見えると、それは、近いうちに死ぬるしらせであるというのでございます。私は、こうした、いい伝えが、私の場合には、言葉の通りに、実現される様な気がいたしまして、何とも言いようのない恐怖に似たものを感じつづけていたのでございます。そうした訳で、お稽古は少しも手につきません、お弟子さん方のお稽古はお母さんに、お頼みいたしまして、私は気分が悪うございますのでとかように申し、四、五日も、床についていたのでございます。
 しかし、五日と経ち、十日と暮しておりますうちに、こうした事も、つい忘れてしまいまして、二週間余りの後には、悪夢から覚めきったように、私の頭からは、もう、すっかり、あの、私の影も姿も消えさってしまったのでございました。時として、あの不気味な瞬間を思い出す事がございましても、
(あの時は、お天気の加減で、頭が変になっていたのではないのかしら)
 なぞと、考える様になっていたのでございます。しかし、そ
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