うは申しますものの、次の瞬間には、
(いや、確かに……)
 と、こう思いまして、さて、われと自分の頭を、大きく振り、
(思うまい、思うまい、早く忘れてしまいましょう)
 と、独白《ひとりごと》していたのでございます。

 昔から、よく、一度あることは二度あるとか申しますが、私の場合では、一度ならず、二度三度と、思いもかけぬ出来ごとがつづいていたのでございました。
 この第二の出来ごとと申しますのは、お部屋をお掃除いたしておりますとき、片隅から、小さな石のはいった指差が出て来たことでございました。いつの頃から、そうしたところに、ころがり込んでいましたものやら、見ると、私のものではございません。もしかすると、お母さんがもっていられるものでもあろう、と、かように考えまして、おたずねいたしましたが、そうでもございません。
「お子供衆のうちの、どなたかが落されたのではないのかい」
 お母さんは、こんなにも申されましたが、そのお部屋は、私の居間でございますので、そうしたところまで、お弟子さんがはいって来られる筈もございません。それに、見た目にも、お子供衆のお持ちになるものでもございません。私は不思議なことがあるもの、とは考えましたものの、まさか、家の中にあったものを、警察へおとどけするのも、どうかと存じましたし、それに、あれほども高価なものとはゆめにも考えませんでしたので、箪笥《たんす》の小引出しに、入れたまま、忘れるともなく、忘れていたのでございました。

 こうした出来ごとがございましてから、二、三日も過ぎた頃でございましたか、何も、これほどのことを、出来ごとなぞと申すのも変でございますが、新しい、お弟子いりがあったのでございます。これが、いつもの様に、お子供衆でございましたら、別に、変わったことではないのでございますが、何分にも、相手がお年をめされた方それも、大家の御隠居さまとも、お見うけするような御仁《ごじん》でございましたので、私たちにいたしますれば、正《まさ》しく、一つの事件には相違なかったのでございます。

 それは、二、三日もの間、降りつづいた、梅雨《つゆ》のように、うっとうしい雨が、からりと晴れて、身も心も晴々とするような午後のことでございました。お稽古も、一と通りすみまして、ほっと、大きな息をしたところでございました。
「ごめんくださいませ」
 と、いう丁重《ていちょう》に訪れて来られた方がございました。年の頃は五二、三、着物の好みは、あくまで、渋い、おかしがたい気品あるうちにも、何かしら昔を思わせる色と香のまだ消えやらぬ、どこか大家の御隠居さま、と感じられるお方でございました。
「御都合がおよろしい様でございましたら、しばらく、お稽古して頂きたいと存じますが」
 と、かように申されたのでございます。私にいたしましては、もとより、異存《いぞん》のある筈はございません。
「お稽古と申しましても、ほんの、お子供衆のお手ほどき、それでもおよろしい様でございますれば」
 と、お受けしたのでございました。私は最初の内、そうした身分の方でございますれば、わざわざ私たちの様なところへお越しになるのも、不審といえば、不審なこと、何故にまた、お宅へ名ある師匠をお呼びよせにはならないのであろう、と考えたのでございました。しかし、段々と、お話を承《うけたま》わっていますと、それにも道理のあること、と合点《がてん》したのでございます。この方は、私が最初に推量いたしましたように、名ある資産家の御隠居さまでございました。お宅は芦屋《あしや》の浜にございましたが、お若い時からの、ご陽気すぎ、それも、奥様、ご寮人《りょうにん》さまで、下男、下女にかしずかれていられる間は、下の者の手前、こうしたお稽古ごとなぞ思いもよらぬことでございましたもの、御隠居さまで、御自由なお身体になられますと、時間の御都合もでき、せめてもの楽しみに、と、お買物の風を装われては、街までお出ましになり、それも、名のある師匠ではお知合いのお方にお会いになるけねんもございますこととて、わざと、ああした旧家町。私たちの様な、お稽古所へ尋ねて来られたのでございました。ところが、
「では、そちらさまのご都合が、およろしいようでもございましたら、お稽古は今日からでもいたしましょう」
 と、申しまして、
「唄をなさいますか、それとも、踊りのお稽古でございましょうか」
 と、お伺いいたしますと、
「唄を、どうぞ」
 と申されたのでございます。お年寄り衆でございますれば、大抵《たいてい》は踊りか、さもなくば、三味線のお稽古をなさるものでございますので、こうしたお言葉に、私は、少し意外に感じたのでございました。それで、
「唄でございますね」
 と、念を押し、
「何か、ご注文でも……」
 と、重ねて、
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