行く――そうした事は、あまりにも、当然では御座いますまいか。
しかし、その時に、私が撥をもって行かなかったか、とのお訊ねに対しては、
「いいえ」
と申しますより、
「絶対に、持って参りません」
と申上げたいと存じます。三味線ひきの私にとって、三味線と撥とは、申すまでもなく、私の魂でございます。しかしお恥かしい話ではございますが、あの場合、私としたことが、すっかり、自分の魂を忘れていたのでございます――癪を起しまして、三味線と、手にした撥を、下においたなり、すっかり忘れていたのでございます。後ほどに、承りますれば、新三郎が、三味線と撥とを自分の部屋にもってかえり、床の間においていてくれたのだそうでございます。が、私は、もちろんのこと、そうした事情を知りませず、今も申しますように、三味線や撥のことは、少しも考えず、唯ただ、舞台で、私の替りに弾いている、新三郎の三味線が気になるままに、おとどめ下さる方々を、振り切るようにいたしまして、舞台上手の横まで出て参ったので御座いました。それから、あの事件が起りまして、幕が下りますまで、私は、じっと、一と処に佇んだままでございます。そうした私と
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