ございまして、(い)の健さんと、(ほ)の私とには何のお疑いも、かからなかったのは当然のことでございましょう。
光子さんは、警察のお取調べに対して、次の様に申されたと承っております。
「私は、あの四日前から勧進帳の、お稽古を始めて頂いたのでございます。唄と三味線を習っておりましたので、普通の通り、まず唄のお稽古をして頂き、唄が上ると、三味線を始めて頂くことになっていたのでございます。あの前日には、唄はもう、すっかり、済ませていただいたのでございますから、当然、三味線のお稽古を始めて頂く筈でございましたが、どうも、も一つ、自信がない様に思いましたので、もう一日だけ、唄のおさらいをして頂き、あくる日から、三味線にかかって下さいます様に、と、お願いしたのでございました。師匠は、頭が痛いので、と、とても御気嫌が悪い様でございましたが、私がお願いした通りあの日も唄をさらって下さったのでございます。私のおけいこ振りは、下にいられた皆様がお聞きになっていた通りでございまして、大変に出来が悪うございました。私は、どうにか、お稽古をすませて頂きますと、お師匠さんに有難うございました、と挨拶し、逃げる様に、階下に降りたのでございます。お師匠さんは、私の言葉に、小さな声で左様なら、と、お答えになりましたが、よほど、お頭《つむり》が病《や》めていましたものか、そのまま、お稽古台の上に、俯伏《うつぶせ》になられました」
光子さんの次には、師匠のお母さんが、お取調べを受けられたのでございますが、警察でなさいました陳述は、次の様であった、と承っております。
「何でまた私が、そうしたお疑いを受けるのでございましょう。お仰せになります様に、あれは私の実の子では御座いません。しかし、三つの年から二十三まで、手しおにかけて育てた、わが子に相違はございません。何でまた、私が手をかけてよろしゅう御座いましょう。お仰せになります様に、私には実の子がございます。あの娘よりも三つの年上ことし二十六でございます。私が、あの家に嫁入りします前に生んだ子供で、二三年前から密かに逢っていたのは事実でございます。娘が死ねば、相当まとまったお金のはいる事、もし、そうした暁には、私と実の子が、誰に何の気兼もなく、一所に住める事は、お仰せの通りでございます。しかし、いくら、実の子供と申しましても、二十幾年も他人にまかせきりの子供と、自分の腹を痛めないまでも、赤子の時から貰いうけて、大きくした子供と、どちらがほんとに、可愛いでございましょう。その、わたくしが、どうしてあの娘を殺す……ええ、とんでもない、そうしたことを考えるだけでも、身の毛がよだつ様でございます」
「お稽古の順序は、呉服屋の健さん、光子さん、その次が菓子屋の幸吉さんでございました。これに相違はございません。光子さんは、勧進帳の唄のおさらいでございました。お稽古がすむとすぐに、降りて来られました。いいえ、何の物音もいたしませんでした。私は、光子さんが降りられますと、すぐに、お茶をくんで持って上ったのでございます。……その時の模様は、とお仰せになるのでございますか。娘はお稽古台の上に顔を伏せておりました。朝から頭痛がする、と申しておりましたし、気嫌も悪い様でございましたから、私は、(お茶を置いておくよ)と、か様に申しまして、座蒲団の傍に置き、そのまま下に降りたのでございます。返事がないのに、不審に思わなかったかとお仰せになるのでございますか。さ様に申されるのは、御尤もでございますが、お稽古の最中には、なるべく物を云わぬ様にしていたのでございます。それに、今までにも、頭痛を押して、お稽古をしている時なぞでございますと、お弟子さんと、お弟子さんの合間なぞ、よく、そんな風に、お稽古台に、俯伏さっていたものでございます。そうした時には、私は、なるべく、言葉をかけぬ様にいたしておりましたし、言葉をかけましても、返事がなければ、そのままに済ませる様にしていたのでございます。あの娘は、よい娘で、私には、とても、よく尽して呉れましたが、時として、返事もしない事がございました。しかし、一日中、お弟子さん方の、気嫌きづまを取っていますのも、随分と気も心も疲れること、と娘の気持ちを汲んでやる様なつもりで、そうした時にも、何の小言も云わぬ様にしていたのでございます」
「……部屋の様子に、何か、変ったことはなかったか、と仰有るのでございますか。別に何も、変った事とてはございませんでした。表の、格子戸は、大掃除の時に、外すきりでございますから、決して、人の出入なぞ出来る筈はございません。裏の方は、ガラス戸がはまっておりまして外は物干台になっているのでございますが、鍵は何時もかかっております。……では、誰が殺したと考えるか、と仰有るのでございますか。それはどうも推量もいたしかねます。何しろ、光子さんはお稽古を、おすましになって、すぐに降りて来られましたし、私と入れ替る様に、二階へ上られた菓子屋の幸吉さんも、上られてから、降りて来られる迄の間に、五分間あまりの時間がございましたものの、その間には、何の物音もいたしませんでした」
四
小母さんの次には、菓子屋の幸吉さんが、取調べをお受けになりましたが、警察の方の訊問に対して、次の様に、お答えになったとのことでございます。
「私は二階へ上りまして、今日は、と申しましたが、何の答もなく、師匠は稽古台の上に俯伏さっておいでになりました。私は下でも伺っておりましたし、お頭が痛むのであろうと存じまして、そっと、お稽古台の前に坐り、顔をお上げになるのを待っていたのでございます。私は、声をかけるのも、悪いか、と存じまして、しばし、御遠慮申していましたが、余り長いので、(お頭が痛むのでございますか)と、声をかけたので御座います。それでも、何の返事も御座いません。私は、その時に初めて、不気味な予感に襲われたのでございます。(お師匠さん……)私は、こう申しまして、横顔を覗き込んだのでございます……」
「お仰せになります様に、私が死体の発見者でございますから、お疑いを受けるのは、当然のことでございましょう。しかし、私には、師匠を殺害せねばならない様な理由はございません。師匠に思いをよせていた、愛の申し出を拒絶されたが為の兇行とは、あまりに、穿《うが》ち過ぎた御推測でございます。お仰せになります様に、いつか、師匠に歌舞伎座のお芝居でございましたか、おさそいした事がございました。別に、私と二人きりで、とも、皆を誘って、とも申しませんでしたが、言葉の調子から、私と二人で、そっと見物に行く、と云う様に聞こえたのでございましょう。師匠は、(二人きりで行ったりしますと、人の口が煩《うるそ》う御座いますよ)
と、微笑みながら申されました。私は何とも答えず、同じ様な微笑を返したのでございました。こうした話を、師匠は小母さんにもしていられたのでございましょうし、そうした事をお耳にされてのお言葉と存じます。しかし、師匠に思いを寄せていたがために、さような事を申したのではございません。従って、あの時にお断りされたことも、私にしましては、別に悲しい事でも、腹の立つことでもなかったのでございます」
これで、まあ、容疑者の一と通りの訊問は終ったのでございますが、警察の方は、最初、このお三人とも、同じほどに、疑いの目をもって見ていられた様でございました。即ち、
光子さんは生きている被害者を最後に見た人として、
菓子屋の幸吉さんは、被害者の死体発見人として、そして、
小母さんは、被害者の死によって利益を受ける唯一の人物として、
だそうで御座います。ところが間もなく、光子さんと小母さんに対する嫌疑は、全く晴れた様でございました。と申しますのは、殺人方法なのでございますが、それは素手で行った絞殺でございまして、何んでも両手の親指を被害者の咽喉部にあて、四指を頸の後に廻して、そのまま締めつけているのだそうでございまして、こうしたことが光子さんや小母さんの様な、女の手で出来そうになく、それに咽喉部に残された親指の跡と、中指、食指等によってなされたらしい、後頸部の爪跡、との間隔を調べた結果、加害者は男に相違ない事が証明されたのでございます。こう云った訳で、小母さんと光子さんの嫌疑は全く晴れたのでございますが、同時に、死体発見者である幸吉さんこそ、真犯人に相違ない、と考えられる様になったのでございます。しかし、幸吉さんは、決して、自分が犯人ではない、と極力弁明していられました。私が御面会いたしました時にも、
「広子さん。たとえ、誰が何と云いましても、あなただけは、私が犯人でない事を信じて下さるでしょう」
と、申されました。私は、幸吉さんがお可愛想になって思わず涙を溢《こぼ》しました。
「ええ、信じますとも……」
こう申したのでございます。そして、声を低くめまして、
「幸吉さん、御心配なさいますな。私が、きっと、犯人を探してごらんに入れますわ」
と申しました。すると、幸吉さんは、
「え、広ちゃんが……」
と思わず叫ばれました。
「ええ、私に思いあたることがございますの」
私は、きっぱりとこう申しました。
五
かような事を申しますと、甚だ、生意気な様でございますが、皆様の中には、長唄という様なクラシックな日本音楽について、何も御存じない方が、おありになるかも知れないと存じます。そうした方の御参考までに、この純日本趣味な音楽について、少しばかり、申し述べて見たいと存じます。私が今、手許においております百科全書には「長唄」という項に、次の様なことが記されて御座います。
「(長唄)江戸歌舞伎の、劇場音楽として発達したものである。創始者は明確でないが、貞享《じょうきょう》、元禄《げんろく》年間に、上方から江戸へ下って来た、三味線音楽家、杵屋一家の人々が、歌舞伎の伴奏に用いた上方唄が、いつしか、江戸前に変化し、その基礎をなしたことに疑いはない。……江戸長唄なる称呼が、判然と芝居番附に掲げられたのは、宝永《ほうえい》元年のことである」
しかし、これは、劇場音楽としての長唄でございますが、私たちがお稽古をいたしておりますものは、たとえ、歌詞や曲が全然、同じではございますものの、完全に独立した、家庭音楽としての長唄なのでございます。百科全書にも、この劇場から独立した長唄について、次の様な附記がございます。
「(家庭音楽としての長唄)明治三十五年の八月に『長唄研究会』が創立された。その目標とするところは、劇場から独立した長唄――芝居や所作事または、舞踊、等に拘束されぬ、聴くべき音楽としての長唄――研究であって、創立以後、演奏回数五百有余に及び、長唄の趣味好尚を、広く、各階級、各家庭に普《あま》ねからしめた」
こうした過程を経まして、今日では、地唄《じうた》、歌沢《うたざわ》、端唄《はうた》と同じ様に、純然たる家庭音楽になっているのでございます。しかし、そうは申しますものの、唯今の様に普及される迄には相当に、生れ出ずる悩みがあった様でございます。その第一は、長唄のあるものは、とても美しく唄っては御座いますものの、随分と、そうでない個所があった様でございます。例えば、伊勢音頭にいたしましても、こうした一節がございます。
※[#歌記号、1−3−28]流れの泉色も香も愛《めで》給わればいそいそと花に習うてちらりとそこに情の通う若たちの心任せに紐ときて上の下のととる手も狂うヨイヨイヨイヨイヨンヤサソレヘ
※[#歌記号、1−3−28]豊な御代に相逢はこれぞあたいのなき宝露もこぼさずすなおなる竹の葉影に組重ねあかぬ契りのあかしにはあけの唇ぬっくりと月花みゆきひとのみに傾け捧げ乱れざしヨイヨイヨイヨイヨンヤサソレヘ
それに、作詞家の間違いか、それとも、唄本の版元が飜刻《ほんこく》の際に過ったものが、そのまま、後世に伝りましたものか、時として、唄の意味が通じなかったり、とても変な場合があるのでございます
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