丁度あの日は、嫌に湿っぽい、とても陰気なお天気でございました。私がお稽古に上りました時は、まだ、四時過ぎで、いつもは明るい奥の間が、うす暗く、ぼんやりと、座敷に座っていられるお母さんの影が、古い土蔵の白壁に静かにとまっている蜥蜴《とかげ》の様に、とても気味悪く、くっきりと浮んでいたことを記憶いたします。私が這入って行きますと、呉服屋の健《けん》さんが、唯一人座っていられました。私は、お母さんと、健さんに、
「今日は……」
と御挨拶いたしまして、健さんの傍に座ったのでございます。健さんは、
「いらっしゃい」
と、軽く頭を下げられました。二階からは、お稽古の声と三味線が聞えて参ります。
※[#歌記号、1−3−28]旅の衣は篠懸《すずかけ》の、旅の衣は篠懸の、露けき袖やしぼるらん
勧進帳でございます。どうやら、お稽古されているのは光子さんらしゅう御座います。健さんは、二階の声について小声で唄っていられましたが、
「私は次にあれを習いたいと思っています。今日はもうお稽古をすませて頂きましたが、光子さんがおさらいをしていられますので、聞かせて頂いています」
と、こう申されました。
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