光子さんと健さんとの、仲のいいのは、師匠の宅でも、内密でお噂していた事でございまして、時間を申し合せて来られるのか、何時もお二人は同じ頃に来られて、お稽古を待ち合せては、一所におかえりになる――と、いい加減お年寄りな小母さんまでが(こうも女は口賢《くちさが》ないものでございましょうか)お子供衆の弟子さんを対手に、そうしたお噂をされていた事がございました。
「そうでございます。聞き覚えておきますと、お稽古をして頂く時に、ほんとに、役に立つ様でございます」
私が、こう、お受け答えいたしますと、小母さんは、話の機会《しお》を見付けられた様に、長煙管《ながきせる》を、火鉢の縁で、ぽんと、はたかれまして、
「ほんとでございますよ。こんな、お稽古ごとにも、岡目八目と申すのがあるのでございましょうか……」
とお追従《ついしょう》笑いをされまして、新しく、煙管を吸いつけられました。その火が、蛍の光の様に――しかし、どす黒く赤く――薄暗くなった奥の部屋で、消えてはつき、ついては、消えていた事を憶えております。
光子さんは調子よく唄っていられました。あの、むつかしい、
※[#歌記号、1−3−28]元より勧進帳のあらばこそ、笈《おい》の内より往来の、巻物一巻とりいだし
のところなんぞも大変お上手に唄っていられました。が度々、調子をはずしては、また唄いなおしていられました。健さんはこうした時、そっと、上目で天井を見上げては、何となく落ちつかぬ御様子でございました。それも、そうした折、光子さんの、うろたえた、汗ばんだ面に注がれる師匠のきつい目を、想像していられたがためで御座いましょう。しかし、それにいたしましても、とても、お上手に唄っていられた光子さんが、
※[#歌記号、1−3−28]判官《ほうがん》おん手を取り給い
のところで、すっかり弱ってしまわれた様子でございました。二三度も、同じところを繰返していられましたが、四度目に、やっと、師匠のお許しがありましたのか、次にすすんで行かれました。が、その時、私は思わず、
※[#歌記号、1−3−28]判官……
と、光子さんの唄われた文句を、そのまま、口の中で繰返したのでございました。
二
二階から降りて来られた光子さんは、すっかり汗をかいていられましたが、私に軽く会釈されると、
「有難うございました」
と、
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