それはどうも推量もいたしかねます。何しろ、光子さんはお稽古を、おすましになって、すぐに降りて来られましたし、私と入れ替る様に、二階へ上られた菓子屋の幸吉さんも、上られてから、降りて来られる迄の間に、五分間あまりの時間がございましたものの、その間には、何の物音もいたしませんでした」
四
小母さんの次には、菓子屋の幸吉さんが、取調べをお受けになりましたが、警察の方の訊問に対して、次の様に、お答えになったとのことでございます。
「私は二階へ上りまして、今日は、と申しましたが、何の答もなく、師匠は稽古台の上に俯伏さっておいでになりました。私は下でも伺っておりましたし、お頭が痛むのであろうと存じまして、そっと、お稽古台の前に坐り、顔をお上げになるのを待っていたのでございます。私は、声をかけるのも、悪いか、と存じまして、しばし、御遠慮申していましたが、余り長いので、(お頭が痛むのでございますか)と、声をかけたので御座います。それでも、何の返事も御座いません。私は、その時に初めて、不気味な予感に襲われたのでございます。(お師匠さん……)私は、こう申しまして、横顔を覗き込んだのでございます……」
「お仰せになります様に、私が死体の発見者でございますから、お疑いを受けるのは、当然のことでございましょう。しかし、私には、師匠を殺害せねばならない様な理由はございません。師匠に思いをよせていた、愛の申し出を拒絶されたが為の兇行とは、あまりに、穿《うが》ち過ぎた御推測でございます。お仰せになります様に、いつか、師匠に歌舞伎座のお芝居でございましたか、おさそいした事がございました。別に、私と二人きりで、とも、皆を誘って、とも申しませんでしたが、言葉の調子から、私と二人で、そっと見物に行く、と云う様に聞こえたのでございましょう。師匠は、(二人きりで行ったりしますと、人の口が煩《うるそ》う御座いますよ)
と、微笑みながら申されました。私は何とも答えず、同じ様な微笑を返したのでございました。こうした話を、師匠は小母さんにもしていられたのでございましょうし、そうした事をお耳にされてのお言葉と存じます。しかし、師匠に思いを寄せていたがために、さような事を申したのではございません。従って、あの時にお断りされたことも、私にしましては、別に悲しい事でも、腹の立つことでもなかったのでご
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