の子供と、自分の腹を痛めないまでも、赤子の時から貰いうけて、大きくした子供と、どちらがほんとに、可愛いでございましょう。その、わたくしが、どうしてあの娘を殺す……ええ、とんでもない、そうしたことを考えるだけでも、身の毛がよだつ様でございます」

「お稽古の順序は、呉服屋の健さん、光子さん、その次が菓子屋の幸吉さんでございました。これに相違はございません。光子さんは、勧進帳の唄のおさらいでございました。お稽古がすむとすぐに、降りて来られました。いいえ、何の物音もいたしませんでした。私は、光子さんが降りられますと、すぐに、お茶をくんで持って上ったのでございます。……その時の模様は、とお仰せになるのでございますか。娘はお稽古台の上に顔を伏せておりました。朝から頭痛がする、と申しておりましたし、気嫌も悪い様でございましたから、私は、(お茶を置いておくよ)と、か様に申しまして、座蒲団の傍に置き、そのまま下に降りたのでございます。返事がないのに、不審に思わなかったかとお仰せになるのでございますか。さ様に申されるのは、御尤もでございますが、お稽古の最中には、なるべく物を云わぬ様にしていたのでございます。それに、今までにも、頭痛を押して、お稽古をしている時なぞでございますと、お弟子さんと、お弟子さんの合間なぞ、よく、そんな風に、お稽古台に、俯伏さっていたものでございます。そうした時には、私は、なるべく、言葉をかけぬ様にいたしておりましたし、言葉をかけましても、返事がなければ、そのままに済ませる様にしていたのでございます。あの娘は、よい娘で、私には、とても、よく尽して呉れましたが、時として、返事もしない事がございました。しかし、一日中、お弟子さん方の、気嫌きづまを取っていますのも、随分と気も心も疲れること、と娘の気持ちを汲んでやる様なつもりで、そうした時にも、何の小言も云わぬ様にしていたのでございます」

「……部屋の様子に、何か、変ったことはなかったか、と仰有るのでございますか。別に何も、変った事とてはございませんでした。表の、格子戸は、大掃除の時に、外すきりでございますから、決して、人の出入なぞ出来る筈はございません。裏の方は、ガラス戸がはまっておりまして外は物干台になっているのでございますが、鍵は何時もかかっております。……では、誰が殺したと考えるか、と仰有るのでございますか。
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