り、幕府の有司をおどかしたりして、始末がつかない。そこで関東で浪士を募集して、御用の暴力団を拵え対抗させる。これは板倉周防守が、主税介の申立てを聞いた時に思いついたことだったので、それを実行したのでありました。しかし出発を命ぜられたところの浪人達というものは、沢山お手当を貰えることと思っていたところが、ほんの旅費だけだったので、衣服や大小を新調した、その払いさえ出来ません。いずれ御用が済んで帰って来てから払う、というわけで、借り倒して江戸を立った。そうして上京を致しましたが、御所のうちに新しく建てられました学問所、これへ建言するというわけで、清河八郎等が出かけて行く。どうして、西国九州から来ている浪士を防ぐどころでなく、幕府は自分で集めた浪士を持て余すありさまになった。京都でこの手合が攘夷論を煽るのですから、幕府は非常に迷惑しました。この時あたかも島津三郎が生麦で外国人を斬りまして、大騒動が起ったので、この一件は随分危険なところまで進行しておったので、江戸の状況も甚だ心配されるようなありさまになった。そこで江戸の人心が恟々《きょうきょう》たる様子もあり、ここを付け込んで不逞の徒が跳梁する。これを鎮撫させるという名義を拵えて、御用の暴力団を江戸へ返しました。それから帰って来た人達というものは、攘夷の先鋒を承ったなどといって大威張りで、なかなかの騒動をやったのでありますが、近藤勇はここまでで、この御用の暴力団との関係が一きりになるのであります。
 近藤の舞台は京都でありまして、ここで大変な評判の男になれたのである。一体は清河の募集に応じて出て来た人間でありますけれども、教授方とか、組頭とかいう位置についたのでありません。全く一兵卒の位置で、新見錦《しんみにしき》という人の手に属しておった。清河八郎に最も近かった数人を除けば、いずれも腹の減った、物食いのいいやつが多いので、皆|估《う》らん哉の人間どもでありましたから、そこからいえば、近藤だっても悪くもいわれない。近藤は京都にまいりまして間もなく、京都守護職であった会津侯と結託して、芹沢鴨《せりざわかも》・土方歳三《ひじかたとしぞう》等数人と一団になって、清河等と分離しまして、京都に居残ったのであります。これは近藤一人では、なかなか京都に踏みとどまるの、分離するのということがうまくゆきませんから、頭立っていますところの芹沢
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