としてもやり方がない。そこで幕府を道具にして、自分の考えを世の中に行おうという腹なのです。それからまた、当時尊王攘夷論、これは幕臣のうちにも、諸大名の手を借りずに幕府自身攘夷を決行すれば、それでよろしいのである。そうすれば何も諸大名から騒がれるようなことはない。幕府の当局があまり因循姑息だから攘夷が出来ないのだ、と考えているものもありました。そういう機会でありましたから、清河は攘夷論をもって、幕府側に割り込んでゆこうとする。幕臣のうちにも、幕府に攘夷を決行させようという心持のある際でありますから、清河が割り込んできても、自分の考えと同じもののように思う者もあった。清河の内心は、それとは違っておるのでありますけれども、分量は少うございましたろうが、幕臣中にも多少清河に同情するものもなくはなかったのであります。
 しかし清河は風雲児であります。意気の盛んな、功名心の高いものではありましたけれども、生きんがための勤王党、生きんがための佐幕党というようなものとは違っている。腹をよくするためなら、何でも食う、物食いのいい人間どもとは、一緒になりません。大変に策略を用いますから、清河の人格を疑うことがないでもないが、しかしまたその策略に腐心する彼の心持から申せば、穢いものではないということが知れないこともありません。しかしここに集められたものは、そういうこととは全く懸り合いのないものであって、随分物食いのいいのもいたのであります。糾合されたところの浪人等は、軍用金の調達をするといって、随分市中を荒しました。そうしてその取締りというものは、もうなかなか松平主税介には出来ません。本尊様の主税介は置物になって、働き手の清河が表に出るのみならず、末派末流が無法なことを働く、その始末も立たなくなりましたから、そこで主税介をやめて、浪士取締りとして、鵜殿民部少輔・中条金之助・山岡鉄太郎・松岡万などというものを任命して、浪士団を統率するように致しました。
 この時丁度家茂将軍の御上洛がありました。これは文久三年の二月に出発されるのであります。その御警衛というわけで、浪士等は鵜殿民部少輔以下の人に率いられて、中山道を先発したのでありますが、それはその当時と致しましては、江戸で浪人があばれるということよりも、京都にいる浪人どもがあばれる。西国九州から出て来た浪人等があばれる。お公家様をおどかした
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