中里介山の『大菩薩峠』
三田村鳶魚
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)婀娜《あだ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)秋月|胤永《たねつぐ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ぞんざい[#「ぞんざい」に傍点]といふのは
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)もし/\
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上
中里介山さんの『大菩薩峠』(普及本の第一巻)を読んでみる。これは最初のところは、奥多摩の地理や生活ぶりが書いてあるので、そこに生れた作者にとっては、何の造作もない、まことに危なげのないところでゆける。しかし例の通り言葉遣いや何かの上には、おかしいところがある。それから武家の生活ということになると、やはりどうもおかしいところが出てくる。これは大衆文芸として、早い方のもののようでありますが、怪しい方でも同じく早いということになるんだろうと思う。
一二頁のところで、宇津木文之丞の妹だといって、この小説の主人公である机竜之助を訪ねて来た女がある。その言葉に「竜之助様にお目通りを願ひたう存じまして」とあるが、この女は実は文之丞の女房で、百姓の娘らしい。文之丞は千人同心ということになっている。竜之助の方はどういう身柄であったか、書いてないからわからない。道場を持っているし、若先生ともいわれているけれども、あの辺のところに、郷士があったということも聞いていない。竜之助の身分はわかりませんが、しばらく千人同心程度としても、「お目通り」は少し相場が高い。「お目にかゝりたい」くらいでよかろう。書生さんを先生といえば、かえってばかにしたように聞える。わずかなことのようだけれども、これも各人の生活ぶりを知らないから起ることだと思う。
それからそこで竜之助のところにいる剣術の弟子達のいうことを聞くと、「賛成々々」とか、「宇津木の細君か」とかいう漢語が出る。これはおよそ文久頃と押えていい話だと思うが、こんなわけもない漢語のようでも、まだザラに遣われている時ではない。
「宇津木文之丞様の奥様」ということもここにあるが、千人同心などというものは、三十俵か五十俵しか取っていないのですから、そういう者の妻を、どこからでも「奥様」なんていうはずはない。奥様のことは、実に度々繰り返して言いましたが、大衆文芸というと、申し合せたように、こういう間違いを繰り返しているんだから仕方がない。ここでもまた繰り返しておきます。
一八頁に竜之助の言葉として、「如何なる人の頼みを受くるとも、勝負を譲るは武術の道に欠けたる事」とある。剣道とか、武道とかいう言葉はあったでしょう。「武術の道」なんていう言葉は、この時代としては不似合である。
四十頁の御嶽山で試合をするところ、双方の剣士を呼び出すのに、一方の「甲源一刀流の師範、宇津木文之丞藤原光次」はいい。一方を「元甲源一刀流、机竜之助相馬宗芳」という。これは「平宗芳」というべきはずのところだと思う。たしかにこれは間違っている。同じところにある「音無しの構」というものは、撃剣家の方では、何流にもないという話を聞いている。そういうことは、あるいは小説だけに、勝手に拵えてもいいかとも思われるが、氏名を呼ぶ方は、こういう場合に、姓のほかに在名を遣うことは知らない。一方は立派に源平藤橘の藤原で呼んで、他方も平氏であるのに殊更に在名を呼ぶのは、わけが分らない。これは剣術の流名や何かを、いい加減に拵えるのとは違って、折角書いている小説を、わざわざ嘘らしくしてしまうようなものだ。
四二頁に「呼吸の具合は平常の通りで木刀の先が浮いて見えます」と書いてあるが、「浮いて見える」という言葉は、普通落着かぬ意味に解せられる。これも用例が違っているように思う。
五二頁になると、場面は江戸のことになって、本郷元町の山岡屋という呉服屋へ、青梅の裏店の七兵衛という者が訪ねて来る。そうして山岡屋の小僧に向って、「旦那様なり奥様なりにお眼にかゝりたう存じまして」と言っている。また奥様だが、これもいけない。「旦那なりおかみさんなり」と言わなければならぬところです。町家で「奥様」というのは、絶対にあるべからざることで、この近所にいくつも「奥様」という言葉が出てくるが、そんなことは江戸時代には決してない。
五三頁に「以前本町に刀屋を開いておゐでになつた彦三郎様のお嬢様」ということが書いてある。刀屋を開いている、なんていう言葉も、この時代に不相応なものだ。お嬢様もお娘御と改めたい。
五七頁になって、七兵衛に連れられて来たお松という小娘が、「そんな筈は無いのよ」と言っているが、これもおかしい。もう十一二になっている娘、今こそ零落している様子ですが、以前は相当の町人であったらしいのに、その娘にこういうことを言わしている。これはいずれにも、ごく幼年の者の言う言葉でなければならない。
ところへこの店に入って来たのが、「切り下げ髪に被布の年増、ちよつと見れば、大名か旗本の後家のやうで、よく見れば町家の出らしい婀娜《あだ》なところがあつて、年は二十八九でありませうか」(五五頁)という女なのですが、これはどうも大変なものだ。何でも旗本の妾のお古で、花の師匠か何かをしている女らしいのですが、「大名か旗本の後家のやう」というのも、ありそうもない話だ。大名の後室様が、供も連れずに、のこのこ呉服屋なんぞへ買物に来るはずのものでなし、旗本にしたところが、同様の話です。しかも「よく見れば町家の出らしい婀娜な処がある」というんですが、そんなものが大名や旗本の家族と誤解されるかどうか、考えたってわかりそうなものだ。江戸時代においては、そんなばかなことは決してない。
この妙な女が五八頁のところで、七兵衛とお松に声をかけて、「もし/\、あのお爺《とつ》さんにお娘さん」と言っている。これもおかしい。世慣れた女であっても、何か力みのある女らしくみえるのに、こんなことをいう。そうかと思うと、また二人に向って、「お前さん方は山岡屋の御親類さうな」と言っている。いつも買いつけにしている町人の家、その親類に「御」の字をつけるのは不釣合だ。しかるにまたこの女は、「ぞんざい[#「ぞんざい」に傍点]といふのはわたしの言ふことよ」とも言っている。二十八九にもなっている女が、武家奉公をしたことがある者にしろ、ない者にしろ、こんな今の女学生みたいな言葉を遣うはずがない。この「わ」だの、「よ」だのというのは、すべて幼年の言葉で、それもごく身分の低い裏店の子供のいうことです。たとえどういう身柄の者にせよ、二十八九にもなる女が、そういう甘ったるい口を利くのは、江戸時代として受け取ることは出来ない。
六五頁に「下級の長脇差、胡麻《ごま》の蠅もやれば追剥も稼がうといふ程度の連中」ということが書いてある。「下級の長脇差」というのは、博奕打の悪いの、三下奴とでもいうような心持で書いたんでしょうが、博奕打は博奕打としておのずから別のもので、護摩《ごま》の灰や追剥を働くものとは違う。追剥以上に出て、斬取強盗をするようなやつなら、護摩の灰なんぞが出来るはずはない。作者は護摩の灰をどんなものと思っているのか。要するにその時代を知らないから出る言葉だと思う。
六九頁になって、文之丞の弟の兵馬という者が、「番町の旗本で片柳といふ叔父の家に預けられてゐた」と書いてあるけれども、三十俵か五十俵しか貰っていない千人同心が、旗本衆と縁を結ぶことはほとんど出来ない。従って旗本を叔父さんなんぞに持てるわけがない。奥多摩で生れた作者は、八王子に多くいた千人同心のことは委しく知っていそうなものだのに、こんなことを書くのはおかしな話だ。
七六頁に「名主は苗字帯刀御免の人だから、斬つてしまふといふのは事によると嘘ではあるまい」と書いてある。「苗字帯刀御免」というのは、士分の待遇を受けていることである。そういうものはたしかにあったに違いないが、苗字帯刀を許されたからといって、それ故に人を斬ってもいいというわけではないはずだ。帯刀を許すというのは、無礼討をしても構わない、という意味のものではない。無礼討でないにしろ、人を斬っていいということでは更にない。作者はそこのところがわかっていないようにみえる。
八二頁の、竜之助が侘住居をしているところで、「ほんとにもう日影者になつてしまひましたわねえ」と、今では竜之助の女房のようになっているお浜という女――最初に文之丞の内縁の妻だった――が言っている。奥多摩生れの女の言葉が、「日影者になつてしまひましたわねえ」なんぞは、なかなか洒落《しゃ》れている。時代論のほかに、なおそこに興味を感ずる。「ホントに忌《いや》になつてしまふわ」(八四頁)も同様に眺められる。そのほか、この女は盛んに現代語の甘ったるいところを用いていますが、面倒だから一々は申しません。
この竜之助が侘住居をしているのは、どういうところかというと、「芝新銭座の代官江川太郎左衛門の邸内の些やかな長屋」と書いてある。そうして竜之助は、江川の足軽に剣術を教えている、というのです。代官の江川の屋敷が、芝の新銭座にあったかどうか、私は知りませんが、代官の屋敷に足軽がいましたろうか。そうしてまたその足軽に稽古させるために、剣客を抱えておくというほどのことがあったろうか。無論聞いたこともないが、何だか非常にそらぞらしく聞える。
それからまだこの間に、言葉としてわけのわからないのがあるけれども、それは飛ばして九四頁になります。島田虎之助という人の撃剣の道場へ、竜之助が行ったところの話で、「若し島田虎之助といふ人が彼方此方の試合の場を踏む人であつたなら、机竜之助の剣術ぶりも見たり或は其の評判も聞いたりして、疾くにさる者ありと感づいたであらうが、さういふ人でなかつたからこの場合、たゞ奇妙な剣術ぶりぢやとながめてゐるばかりです」――こう書いてある。島田虎之助は当時有数の剣客であったが、方々出歩くことをしないので、竜之助の剣術を見たこともなし、評判を聞いたこともなかった、というのですが、竜之助の剣術が非常にすぐれたものであったならば、ただ奇妙な剣術ぶりだといって眺めているはずはない。構えをみただけでも、これはどのくらいの腕前がある、ということがわからなければならない。それを見てわからないとすれば、島田虎之助はえらい剣客でも何でもないわけだ。
一〇三頁になると、お松という女が、例の山岡屋へ買物に来ていた、花の師匠か何かのところに世話になっていて、四谷伝馬町の神尾という旗本の屋敷へ、奉公に出る話が書いてある。この四谷伝馬町はどういう町であったかというと、これは市街地で、武家地ではない。武家地でないのだから、大きな大名でありませんでも、旗本衆の屋敷でもそういうところにあるはずがない。これは決してあるを得ないことです。
例の花の師匠のような女は、この神尾の先代の寵愛を受けたお妾だったので、今は暇を取って、町に住っている。「院号や何かで通るよりも本名のお絹が当人の柄に合ひます」と書いてあるが、大抵な旗本衆は、先代の妾なんぞは、相当な手当をやって暇を出すのが当り前です。この女は髪を切っていますけれども、院号などを呼ばれるというのは、旗本の妾でありましたならば、当主を産んだ人でなければ、そんなことはない。通りがいいから本名のお絹でいるんじゃない、旗本の妾で、女の子や次三男を産んだのでは、みんなそういうふうになるのです。本人の好みでそういうふうにしているんじゃない。
一〇六頁のところを見ると、神尾の屋敷内では、旗本の次三男が集って、悪ふざけをしている。こんなことはあったでしょう。けれどもここに出て来る女中の名が、「花野」とか、「月江」とか、「高萩」とかいうように、皆三字名だ。旗本なんぞの奥に使われている女どもは、大概三字名でないのが通例であった。
一一六頁になると、新徴組の話が出てくる。『大菩薩峠』が新徴組のことを書いたので、これ以来皆が新徴組のことに興味を持つようにな
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