ったらしくも思うが、いよいよここでその新徴組の話になるのです。まずここは、
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「新徴組」といふ壮士の団体は、徳川の為に諸藩の注意人物を抑へる機関でありました。
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と書き出してある。もともと小説だから、善人を悪人に、悪人を善人に書いたところで、悪いわけはないでしょう。しかし新徴組というものを、こういうものだと思う人があったら、それは大変な間違いで、壮士の団体というのはまあいいが、決して「徳川の為に諸藩の注意人物を抑へる機関」だったのではない。浪士取扱いという名目で、浪人を沢山集めた。これは清川八郎の目論見《もくろみ》で、それが新徴組になったのです。こんな歴史は今改めていうまでもない話であるが、諸藩の注意人物を、どうするこうするというようなものじゃない。
 一一七頁に、新徴組の一人が「隊長」と言って呼んでいる。「隊長と呼ばれたのは水戸の人、芹沢鴨」と書いてありますが、新徴組になってからでも、隊長とはいっていない。続いて、「新徴組の副将で、鬼と云はれた近藤勇」ともあるが、副将という名称もなかった。近藤勇が売り出したのは、京都へ行ってから、会津と提携した後の話で、会津の秋月|胤永《たねつぐ》に操られて躍り出したのが、近藤勇だ。ここに書いてあるのは、清川八郎を要撃しようという相談のところですが、清川は浪士を集めることについては、発起人である。そうして清川を邪魔にするようになったのは、京都へ行って帰って来てからの話です。その時に近藤は京都へ残って、新撰組が出来たのですから、近藤は江戸にいないはずだ。一一八頁には「殊に清川八郎こそ奇怪なれ。彼は一旦新徴組の幹部となつた身でありながら、蔭には勤王方に心を運ぶ二股者」というようなことも書いてある。これも話が違っているけれども、小説だから逆になっても構わずにやったのかもしれない。
 一二一頁になると、「新徴組は野武士の集団である。野にあつて腕のムヅ痒さに堪へぬ者共を幕府が召し集めて、最も好むところの腕立てに任せる役目」云々とある。これでは相当腕前のある、立派な人間ばかり集めたようにみえるが、事実の方からいえば、大変な間違いで、あの中には、随分いい加減ぶしな人物が入っていて、小倉庵事件では青木弥太郎の下回りを働いて、泥坊をやったやつさえある。それに浪士ばかりじゃない、随分剣道の心得のないやつもいたので、腕前が揃っていたなんぞは、とんでもない話だ。大分向う見ずの奴等が多く集った、というならいいかもしれない。一二六頁に「彼等は皆一流一派に傑出した者共で」などとあるのは、全く恐れ入ったことと言わなければなりますまい。
 土方が大将になって清川を要撃する。ところが駕籠が間違っていて、中にいたのは、当時有数の剣客島田虎之助だから堪らない、皆斬りまくられてしまう。それはいいが、駕籠の中をめがけて刀を突っ込んでも、何の手応《てごたえ》もない。これは島田が「乗物の背後にヒタと背をつけて前を貫く刀に備へ、待てと土方の声がかゝつた時分には、既に刀の下げ緒は襷に綾どられ、愛刀志津三郎の目釘は湿されて居た。空を突かした刀の下から、同時にサツと居合の一太刀で、外に振りかぶつて待ち構へて居た彼の黒の一人の足を切つて飛んで出でたもの」で、外の者は全くそれに気がつかなかったようになっている。いくら名人の剣術遣いでも、そんなおかしなことが出来得べきものではない。
 一二八頁には「島田虎之助は剣禅一致の妙諦に参し得た人です」と書いている。こんなことは全く書かいでもと思う話なので、参禅してどうなったかというと、「五年の間一日も欠かす事なく、気息を調へ丹田《たんでん》を練り、遂に大事を畢了《ひつれう》しました」と書いてある。これでは参禅というのは、気息を調えて丹田を練る、そうして大事を畢了する、というふうに読める。座禅というものが、まるで岡田式みたいなものになってしまう。こんなことは書かずにおく方がいい。もし参禅というものを、そうしたものだと思う人があったら、それこそ大変な間違いを惹き起すことになる。
 一方ではどういう心持か知らないが、「上求菩提《じょうぐぼだい》、下化衆生《げけしゅじょう》」という心持で小説を拵えているとか称する作者が、こんなことを書いたのを改めようともしないでいるのは、そもそも何の心持があるのか、少年高科に登るということは不仕合せであると、李義山の『雑纂』の中に書いてある。一体作者は奥多摩に生れた、最も素性のいい少年であって、今日立派に成人して、世間でも評判される人になってからよりも、その少年時代というものに、よほど美しい話を持った人だ。いつにも三多摩からは人が出ていない。われわれの知っている人でも、結構な人だと思う人は、多くは故人になってしまわれて、今残っているのは例の尾崎咢堂翁と、それより若いところでは、大谷友右衛門に中里介山さん、ということになってしまった。作者の心がけというものは、決して悪くなかったんだが、少年高科に登ったのが不幸であるように、この『大菩薩峠』の評判がよかったのが、作者にとって幸いであったか、不幸であったか。私はその後も時折作者に会うが、会うたんびに作者はえらい人になっている。それは郷党のために、喜ぶべきことであるかないか、むしろ気の毒なような気もする。
 少年時代のいい話としては、学資を給与するから婿になれ、と富家から求められた時に、それでは学問をした効がないといって郤《しりぞ》けて、独学することにして、長いこと小学校の教員をしておった。こういう心持を持った若い人というものは、現代に求むるに難いところで、この一つの話だけでも、作者の人柄がよくわかると思う。しかるに好事魔多し、『隣人の友』という雑誌を拵えて、時々送ってくれるのを見ると、「大菩薩峠是非」という欄があって、毎号それに賛嘆文を麗々と掲げている。それを眺めて、惜しくない人であれば何でもないが、いかにも惜しい人であるだけに、忍びない心持もする。世間は人を育てて下さって、まことにありがたいものであるが、また人を損ねて下さるものも世間である。近来しきりに作者がいう「上求菩提」はよろしいとしても、「下化衆生」に至っては、作者などのいう文句にしては、少々重過ぎる。それが適当にいえる人が、世界に幾人いるだろうか。礼儀を超えてものを言う。殊に作者に対しては無礼であるかと思うことをも、遠慮なしに言うのは何のためであるか。作者に対する自分の心持と同様の心持の人は、けだし人間にも少いのではないかと思っている。
 余計な話になった。さて一三二頁に「互の気合が沸き返る、人は繚乱として飛ぶ」というのは何のことだろう。散りしく花の花びらででもあったら、繚乱もいいかもしれないが、実に困った言葉だ。この作者もしきりに「平青眼《ひらせいがん》」という言葉を使っているが、大衆作家はどうして揃いも揃って「正眼」を青くするのか。青眼という言葉の意味を、知らないのであろうか。
 それから島田虎之助に向った加藤主税、この両人が斬り合うところに、「鍔競合の形となりました」と書いてある。へぼくたな人間どもなら、かえって鍔競合なんていうこともあるかもしれないが、これは両人ともすぐれた剣客である。殊に島田のごとき、当時の第一人とさえ聞えた人物に、鍔競合なんてばかげたことがあろうはずがない。こういうばかなことを書くのはあさましい。一度作者がこんなことを書き出して以来、その後にめちゃめちゃな剣道、柔道の話が簇出《ぞくしゅつ》した。その俑《よう》を作ったのは恐るべきことである。

     下

 今度は一冊飛んで、第二巻の一番しまいにある「伯耆の安綱の巻」というのを読んでみました。これも甲州の話で、作者の生れたところに遠くない土地の話です。それだからまず間違いのない方になっている。殊に場所が場所だし、誰もあまり知っている所ではありませんから、まことに目立たなくなっていいかと思う。
 ここで第一番に出て来るのが、有野村の馬大尽というものの家のことです。
 この本の頁でいえば、五四四頁のところに、お銀という馬大尽の娘のことを書いて、「着けてゐる衣裳は大名の姫君にも似るべきほどの結構なものでありました」とある。いくら大百姓でありましても、大名の息女に似寄ったなりなんぞをするということが、この時代から取り離れたことでありますし、「大名の姫君にも似るべきほどの結構なもの」というのは、どういうものを着ていたのかわからない。作者もそれが何であったかということを説明していない。この女が髪の美しい女であって、「それを美事な高島田に結上げてありました」とも書いてあるが、大名の姫君というものは、高島田などに結っているものではないはずだ。これはどうしたことか。
 これからこの娘が父親のことを、「父様《とうさま》」といっている。いくら大尽の家の親父にしたところが、その子供が「父様」なんていうことはないはずだ。
 五四九頁になると、この馬大尽の家の女どもが、主人のことを話している。これは甲州の在方の話らしいのに、「なのよ」というような、すこぶる新しいところを用いている。これが文久頃の甲州の女だと思うと、よっぽど不思議な気持がする。ここで、この家の女房のことを、「奥様奥様」と言っているのは、例によっていけません。「変なお屋敷でございますよ」ともあるが、百姓の家をお屋敷というのも何だか変だ。
 五五〇頁になって、「こんな大家の財産と内幕は、わたし達の頭では目当が附きません」ということがある。今日からみると、何でもないようなことであるけれども、この時分の田舎の女が、「わたし達の頭」なんて、「頭」ということを持ち出すのはおかしい。時代離れがしている。ここで前の娘のことを、「お嬢様」と言っているのも、奥様同様百姓家には不釣合である。
 五五四頁に、お銀という娘の言葉として、「あの娘は綺麗な子であつたわいな」ということがある。「わいな」なんぞも、随分変な言葉だと思う。
 それからこの百姓大尽の家に使われている幸内という若い者のことを書いて、「見ると幸内は小薩張《こざつぱり》した袷《あはせ》に小紋の羽織を引かけて」云々(五五六頁)といっている。百姓の家に使われている者などが、小紋の羽織を着るものか、着るものでないか。
 五五七頁に、お銀がお君という女中を呼んで来いと言う。それを傍輩の女中が羨しがって「お前さんばかり、そんなお沙汰があつたのだから」と言っている。こういうことは武士の家でも、よほどいいところでなければいけない。お沙汰という言葉が、どんな場合に用いられているか、少し昔のものを見れば、すぐわかる話です。いかに大尽にしたところが、百姓の家の召使が、「お沙汰」なんていうのは不釣合な敬語である。
 五五八頁に「お君はお銀様の居間へ上りました」とある。「上りました」というなら、「御居間」といいそうなものだが、そこまでは行き届かなかったとみえる。「上りました」も、百姓の家には不釣合だ。
 五六三頁にも、お銀の言葉として「其方《そつち》のお邸へ行つてはなりません」というのがある。この大百姓の家は、主人、姉娘、弟と区切って、住居が拵えてあるらしいが、その一つを指してお邸というのは、他に例のない言い方である。妙に気取ろうとするから、世間無類な言葉も出てくるわけか。そんなに大名めかしい生活をしているのかと思うと、その次の頁には、「三郎様は大きな下駄を引ずつて雨の中を笠も被らずに悠々と彼方へ行つてしまひます」と書いてある。三郎というのはお銀の弟で、「十歳ばかりの男の子」なのですから、子供が大人の下駄でも穿いて来たんでしょう。それは民間によくあることだからいいが、大名めかしい生活の家とすれば、相当に付きの者もいるし、その他にいろんな者もいるはずだから、子供がむやみに大人の下駄を穿いて出るなんていうことは、させもせず、また相当な家に育った子なら、そんなことはしないはずだ。大名・旗本といわず、大百姓・大町人にしても、子供のために別に住居を拵えておくほどなら、その子供が沢山下駄の脱いであ
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