か、伊太夫とかいう名前をいうところです。たとい大尽でも百姓だし、かつまたその使に来た女なのですから、それに「お」の字や「殿」の字をつけるはずがない。それでは士分の者から来た使には、何といったらいいか。こういうふうなところから眺めてまいりますと、百姓や武家の生活はどんな状態にあったか、まるで作者は心に置かずに書いたようにみえる。
 まだ委しくこの本を読みましたら、いろいろなことが出て来るでしょうが、二三の例を挙げておけば、十分だと思います。『大菩薩峠』に対して、友達の一人がいうのに、この中に間違ったことがあるにしても、他の大衆小説のように、どうでもいいと思って書きなぐったのでなくて、真面目に書いている、間違ったのを承知して書く、というようなところはない、ということであった。いかにも他のものに比べると、書き方に真面目なところがある。真面目であるから、もっとよく読んで、もっと沢山指摘した方がいいかもしれない。けれども同じようなことを、すでに度々繰り返しているから、もうそれにもたえない。ここらで止めましょう。



底本:「三田村鳶魚全集 第廿四巻」中央公論社
   1976(昭和51)年12
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