島田虎之助といふ人が彼方此方の試合の場を踏む人であつたなら、机竜之助の剣術ぶりも見たり或は其の評判も聞いたりして、疾くにさる者ありと感づいたであらうが、さういふ人でなかつたからこの場合、たゞ奇妙な剣術ぶりぢやとながめてゐるばかりです」――こう書いてある。島田虎之助は当時有数の剣客であったが、方々出歩くことをしないので、竜之助の剣術を見たこともなし、評判を聞いたこともなかった、というのですが、竜之助の剣術が非常にすぐれたものであったならば、ただ奇妙な剣術ぶりだといって眺めているはずはない。構えをみただけでも、これはどのくらいの腕前がある、ということがわからなければならない。それを見てわからないとすれば、島田虎之助はえらい剣客でも何でもないわけだ。
一〇三頁になると、お松という女が、例の山岡屋へ買物に来ていた、花の師匠か何かのところに世話になっていて、四谷伝馬町の神尾という旗本の屋敷へ、奉公に出る話が書いてある。この四谷伝馬町はどういう町であったかというと、これは市街地で、武家地ではない。武家地でないのだから、大きな大名でありませんでも、旗本衆の屋敷でもそういうところにあるはずがない。これは決してあるを得ないことです。
例の花の師匠のような女は、この神尾の先代の寵愛を受けたお妾だったので、今は暇を取って、町に住っている。「院号や何かで通るよりも本名のお絹が当人の柄に合ひます」と書いてあるが、大抵な旗本衆は、先代の妾なんぞは、相当な手当をやって暇を出すのが当り前です。この女は髪を切っていますけれども、院号などを呼ばれるというのは、旗本の妾でありましたならば、当主を産んだ人でなければ、そんなことはない。通りがいいから本名のお絹でいるんじゃない、旗本の妾で、女の子や次三男を産んだのでは、みんなそういうふうになるのです。本人の好みでそういうふうにしているんじゃない。
一〇六頁のところを見ると、神尾の屋敷内では、旗本の次三男が集って、悪ふざけをしている。こんなことはあったでしょう。けれどもここに出て来る女中の名が、「花野」とか、「月江」とか、「高萩」とかいうように、皆三字名だ。旗本なんぞの奥に使われている女どもは、大概三字名でないのが通例であった。
一一六頁になると、新徴組の話が出てくる。『大菩薩峠』が新徴組のことを書いたので、これ以来皆が新徴組のことに興味を持つようになったらしくも思うが、いよいよここでその新徴組の話になるのです。まずここは、
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「新徴組」といふ壮士の団体は、徳川の為に諸藩の注意人物を抑へる機関でありました。
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と書き出してある。もともと小説だから、善人を悪人に、悪人を善人に書いたところで、悪いわけはないでしょう。しかし新徴組というものを、こういうものだと思う人があったら、それは大変な間違いで、壮士の団体というのはまあいいが、決して「徳川の為に諸藩の注意人物を抑へる機関」だったのではない。浪士取扱いという名目で、浪人を沢山集めた。これは清川八郎の目論見《もくろみ》で、それが新徴組になったのです。こんな歴史は今改めていうまでもない話であるが、諸藩の注意人物を、どうするこうするというようなものじゃない。
一一七頁に、新徴組の一人が「隊長」と言って呼んでいる。「隊長と呼ばれたのは水戸の人、芹沢鴨」と書いてありますが、新徴組になってからでも、隊長とはいっていない。続いて、「新徴組の副将で、鬼と云はれた近藤勇」ともあるが、副将という名称もなかった。近藤勇が売り出したのは、京都へ行ってから、会津と提携した後の話で、会津の秋月|胤永《たねつぐ》に操られて躍り出したのが、近藤勇だ。ここに書いてあるのは、清川八郎を要撃しようという相談のところですが、清川は浪士を集めることについては、発起人である。そうして清川を邪魔にするようになったのは、京都へ行って帰って来てからの話です。その時に近藤は京都へ残って、新撰組が出来たのですから、近藤は江戸にいないはずだ。一一八頁には「殊に清川八郎こそ奇怪なれ。彼は一旦新徴組の幹部となつた身でありながら、蔭には勤王方に心を運ぶ二股者」というようなことも書いてある。これも話が違っているけれども、小説だから逆になっても構わずにやったのかもしれない。
一二一頁になると、「新徴組は野武士の集団である。野にあつて腕のムヅ痒さに堪へぬ者共を幕府が召し集めて、最も好むところの腕立てに任せる役目」云々とある。これでは相当腕前のある、立派な人間ばかり集めたようにみえるが、事実の方からいえば、大変な間違いで、あの中には、随分いい加減ぶしな人物が入っていて、小倉庵事件では青木弥太郎の下回りを働いて、泥坊をやったやつさえある。それに浪士ばかりじゃない、随分剣道の心得のないやつも
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