たらしいのに、その娘にこういうことを言わしている。これはいずれにも、ごく幼年の者の言う言葉でなければならない。
ところへこの店に入って来たのが、「切り下げ髪に被布の年増、ちよつと見れば、大名か旗本の後家のやうで、よく見れば町家の出らしい婀娜《あだ》なところがあつて、年は二十八九でありませうか」(五五頁)という女なのですが、これはどうも大変なものだ。何でも旗本の妾のお古で、花の師匠か何かをしている女らしいのですが、「大名か旗本の後家のやう」というのも、ありそうもない話だ。大名の後室様が、供も連れずに、のこのこ呉服屋なんぞへ買物に来るはずのものでなし、旗本にしたところが、同様の話です。しかも「よく見れば町家の出らしい婀娜な処がある」というんですが、そんなものが大名や旗本の家族と誤解されるかどうか、考えたってわかりそうなものだ。江戸時代においては、そんなばかなことは決してない。
この妙な女が五八頁のところで、七兵衛とお松に声をかけて、「もし/\、あのお爺《とつ》さんにお娘さん」と言っている。これもおかしい。世慣れた女であっても、何か力みのある女らしくみえるのに、こんなことをいう。そうかと思うと、また二人に向って、「お前さん方は山岡屋の御親類さうな」と言っている。いつも買いつけにしている町人の家、その親類に「御」の字をつけるのは不釣合だ。しかるにまたこの女は、「ぞんざい[#「ぞんざい」に傍点]といふのはわたしの言ふことよ」とも言っている。二十八九にもなっている女が、武家奉公をしたことがある者にしろ、ない者にしろ、こんな今の女学生みたいな言葉を遣うはずがない。この「わ」だの、「よ」だのというのは、すべて幼年の言葉で、それもごく身分の低い裏店の子供のいうことです。たとえどういう身柄の者にせよ、二十八九にもなる女が、そういう甘ったるい口を利くのは、江戸時代として受け取ることは出来ない。
六五頁に「下級の長脇差、胡麻《ごま》の蠅もやれば追剥も稼がうといふ程度の連中」ということが書いてある。「下級の長脇差」というのは、博奕打の悪いの、三下奴とでもいうような心持で書いたんでしょうが、博奕打は博奕打としておのずから別のもので、護摩《ごま》の灰や追剥を働くものとは違う。追剥以上に出て、斬取強盗をするようなやつなら、護摩の灰なんぞが出来るはずはない。作者は護摩の灰をどんなものと思っているのか。要するにその時代を知らないから出る言葉だと思う。
六九頁になって、文之丞の弟の兵馬という者が、「番町の旗本で片柳といふ叔父の家に預けられてゐた」と書いてあるけれども、三十俵か五十俵しか貰っていない千人同心が、旗本衆と縁を結ぶことはほとんど出来ない。従って旗本を叔父さんなんぞに持てるわけがない。奥多摩で生れた作者は、八王子に多くいた千人同心のことは委しく知っていそうなものだのに、こんなことを書くのはおかしな話だ。
七六頁に「名主は苗字帯刀御免の人だから、斬つてしまふといふのは事によると嘘ではあるまい」と書いてある。「苗字帯刀御免」というのは、士分の待遇を受けていることである。そういうものはたしかにあったに違いないが、苗字帯刀を許されたからといって、それ故に人を斬ってもいいというわけではないはずだ。帯刀を許すというのは、無礼討をしても構わない、という意味のものではない。無礼討でないにしろ、人を斬っていいということでは更にない。作者はそこのところがわかっていないようにみえる。
八二頁の、竜之助が侘住居をしているところで、「ほんとにもう日影者になつてしまひましたわねえ」と、今では竜之助の女房のようになっているお浜という女――最初に文之丞の内縁の妻だった――が言っている。奥多摩生れの女の言葉が、「日影者になつてしまひましたわねえ」なんぞは、なかなか洒落《しゃ》れている。時代論のほかに、なおそこに興味を感ずる。「ホントに忌《いや》になつてしまふわ」(八四頁)も同様に眺められる。そのほか、この女は盛んに現代語の甘ったるいところを用いていますが、面倒だから一々は申しません。
この竜之助が侘住居をしているのは、どういうところかというと、「芝新銭座の代官江川太郎左衛門の邸内の些やかな長屋」と書いてある。そうして竜之助は、江川の足軽に剣術を教えている、というのです。代官の江川の屋敷が、芝の新銭座にあったかどうか、私は知りませんが、代官の屋敷に足軽がいましたろうか。そうしてまたその足軽に稽古させるために、剣客を抱えておくというほどのことがあったろうか。無論聞いたこともないが、何だか非常にそらぞらしく聞える。
それからまだこの間に、言葉としてわけのわからないのがあるけれども、それは飛ばして九四頁になります。島田虎之助という人の撃剣の道場へ、竜之助が行ったところの話で、「若し
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