る出入口へは行かないようになっているはずでもある。要するに作者は、大名生活も知らず、百姓生活もよく知らないから、こんなことを書くのでしょう。
五六五頁になると、お銀がお君に向って、「まあ、お前、三味線がやれるの、それは宜かつた、わたしがお琴を調べるから其れをお前の三味線で合せて御覧」と言っている。気取った生活をしている人間なら、「三味線がやれるの」なんていう、野卑な言葉を遣うはずがない。しかしこれはもともと百姓なんだから、身分のない娘とすれば、そういうふうに砕けた方がいいかもしれないが、それにしてもこれは砕け過ぎていて、甲州の在方の娘らしくない。それほど砕けたかと思うと、「お琴を調べるから」という。お台所のお摺鉢がおがったりおがったり式だ。おの字の用例を近来の人はめちゃめちゃにしている。めちゃめちゃにしているのではない、御存知ないのであろう。すべてのことを差しおいて、この短い会話だけ眺めても、一方では琴におの字までつけるに拘らず、一方では「やれるの」と言う。一口にいう言葉のうちに、これだけ品位の違ったものが雑居している。百姓の娘が増長して、悪気取りをして、こういうむちゃくちゃをいったとすれば、それでいいかもしれないが、作者はそういう気持で書いたものとも思われない。
同じ頁で話が替って、神尾主膳という人の家のことになる。ここに「組頭や勤番が始終出入してゐました」と書いてあるが、これは「甲府勤番」とすればいいでしょう。次の頁に、主膳の家で刀の話をしていることを書いて、「貴殿の鑑定並びに並々方の御意見を聞いて置きたい物がある」これは主膳の言葉なのですが、この時分には「意見」という言葉を、こういう意味には遣っていないように思う。もっともこういう言葉にしても、ここの会話が全部現代式であれば、釣合がとれなくもないが、古い言葉と新しい言葉とがごちゃまぜになっているので、余計変なのが目立ってみえる。同時に話が嘘らしくなってくる。
五八二頁になると、前に出た有野村の百姓大尽のところへ、勤番支配の駒井能登守が来ることが書いてある。しかも先触れも何もなしに、能登守自身でやって来た。「新任の勤番支配が何用あつて、先触もなく自身出向いて来られたかと云ふことは、此家の執事を少なからず狼狽させました」というんですが、これなんぞも、どうしてもこの時代のこととは思えない。明治以後の成上り時代なら知らぬこと、昔の百姓大尽の家に、執事なんていう人間を持ち出すのも、随分変な話だ。
駒井能登守は遠乗りのついでに立ち寄って、この馬大尽の馬を見せて貰いに来た、というので、「能登守には若党と馬丁とが附いてゐました」と書いてある。そうすれば、その若党なり、馬丁なりが駆け抜けて、自分の主人が来て、これこれのことが所望である、という意味を通じそうなものだ。この時代としては、それが普通の例になっている。しかるにそういうことをさせずに、いきなり駒井が案内を乞うたというのは、またこの話を嘘らしくしている。
一体この甲府勤番支配というものは、二人ずつ勤めているので、勤番は五百石以下二百石以上二百人、与力二十騎、同心百人、支配は四五千石の旗本が勤める。これはなかなか重い役で、芙蓉の間の役人であった。役高は三千石、役知が千石ある。随分重い役です。そういう重い役でありますから、いくら遠乗りに出た時としても、先触れも案内も何もせずに、百姓家に飛び込むなんていうことはないはずだ。かりに若党と馬丁だけを連れて出たにしても、あらかじめその若党なり、馬丁なりをもって、知らせなければならない。そうして主人のみならず、村方の者まで出てお迎えしなければならないのに、この馬大尽の伊太夫は、一向そんな様子もなく、厩に連れて行って馬を見せている。
この五八二頁に、「馬を見せて貰ひたいと思つて、遠乗の道すがらお立寄致した次第このまま厩へ御案内を願ひたいもの」とあるのは、能登守の言葉らしいが、甲府勤番支配というものは、百姓に対してこんな言葉を遣ったものでしょうか。伊太夫は厩から牧場へ能登守を案内して「せめて此の中から一頭なりともお見出しに預かりますれば、馬の名誉でござりまする」なんて言っているが、能登守がその中の一頭の乗試しをして、帰って行く時になっても、一向見送りもしていない。横柄といっていいか、ものを知らないといっていいか、こういうことはこの時代に決してあったとは思われない。
五八六頁になると、お銀がお君の髪を直してやろうといったので、お君が「お嬢様、それは恐れ多いことでございます」と言っている。自分の主人に対してではありますけれども、「恐れ多い」なんていう言葉を、百姓大尽の女中が遣うのは、あまり仰山だ。「恐入ります」というのが当り前でしょう。
五九〇頁に、駒井能登守の若党の一学という者が、能登守の
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