奥様の病気でおられることをいって、「一日も早く、お迎へ申したいと家来共一同その事のお噂を申上げない日とてはござりませぬ」と書いてある。ここで「家来共一同」ということもおかしい、不釣合だと思う。
五九五頁になると、甲府の勤番士の剣道指南をしている小林文吾という者が、門人との応対の中に、「遠慮なく云つて見給へ」という言葉がある。これもよほどおかしい。それに対して弟子の方が、「今度御新任になつた新支配の駒井能登守でございます」と言っているのもけしからん話で、どうして「殿」という敬称をつけないのか。
六一一頁になると、宇治山田の米友という男が、「ならねえ」だの、「知らねえ」だの、「此の八幡様へでえだらぼつち[#「でえだらぼつち」に傍点]が来るさうだから、それで燈火を消しちやあならねえのだ」だの、やたらに江戸訛を用いる。宇治山田の人だというのに、どうしてこんなに江戸訛があるのか。訛ばかりじゃない。江戸調子で「はゝゝゝ笑あせやがら」なんていう。これが伊勢の言葉かと思うと、不思議でたまらない。
六一三頁になると、剣道指南の小林が、変装してやって来る。「竹の笠を被つて紺看板を着て、中身一尺七八寸位の脇差を一本差して、貧乏徳利を一つ提げたお仲間体の男でありました」というんですが、お中間体の男が、どうして脇差をさしていたろう。中間というものは、木刀きりしかさしていない。これはきまりきった話です。中間体に化けるのに、脇差をさしたんでは事こわしだ。
六二六頁になって、お銀とお君とが御籤《みくじ》を取りに来る。そこでお銀が、「この通り八十五番の大吉と出てゐますわいな」と言っている。「わいな」は前にもあったが、どうも甲州人のみならず、誰の言葉にしても「わいな」はおかしい。お芝居のようだ。お君の方は伊勢古市の人だということだが、それが「この八幡様のお御籤が大吉と出ますやうならば、もう占めたものでございますね」と言っている。「占めたもの」なんていう言葉は、どうしても上方の人の言葉とは思えない。
そうすると、今まで変に片づけていたお銀が、お君のことを「君ちやん」と呼んでいる。作者は折り返して「お銀様はお君を呼ぶのに君ちやんと云つたりお君と云つたり、またお君さんと云つたり色々であります」と言っているが、百姓大尽の娘にしたところで、少し村でも重んぜられているような人の娘ならば、自分の雇人でないように聞かせるために、「お君さん」はまだいいとして、「君ちやん」は少しおかしい。この娘はこのあとでも、「わいな」と現代的の「よ」だの「の」だのを、ちゃんぽんに用いています。この甲州大尽の娘と、伊勢生れの女中との言葉は、江戸のごく軽い暮しをしている人の娘らしく、言葉の上からは眺められる。
六三六頁になりますと、甲府の御城の門番にかかって、お君が駒井に逢おうとするところがある。「門番の足軽は六尺棒を突き立て」と書いてあるけれども、甲府城に足軽がいたかいないか、これはたしかに同心のはずだ。同心も足軽も同じようなものですが、また決して間違うまじきものであります。
この門番をしている者が、お君に向って「一応御容子を伺つて来るからお待ち召されよ」と言っている。どうも不思議な言葉を遣うもんだ。「何と仰有るお名前ぢや」とも、「有野村の藤原の家から来たお君殿」ともあるが、百姓の家から使に来た女――これは町人にしても同様ですが、それに対して「お名前」だの「お君殿」だのという言葉を遣うわけはない。足軽にしたところが、同心にしたところが、そのくらいの心得はあるはずだ。それにこういう場合は、やはり八右衛門とか、伊太夫とかいう名前をいうところです。たとい大尽でも百姓だし、かつまたその使に来た女なのですから、それに「お」の字や「殿」の字をつけるはずがない。それでは士分の者から来た使には、何といったらいいか。こういうふうなところから眺めてまいりますと、百姓や武家の生活はどんな状態にあったか、まるで作者は心に置かずに書いたようにみえる。
まだ委しくこの本を読みましたら、いろいろなことが出て来るでしょうが、二三の例を挙げておけば、十分だと思います。『大菩薩峠』に対して、友達の一人がいうのに、この中に間違ったことがあるにしても、他の大衆小説のように、どうでもいいと思って書きなぐったのでなくて、真面目に書いている、間違ったのを承知して書く、というようなところはない、ということであった。いかにも他のものに比べると、書き方に真面目なところがある。真面目であるから、もっとよく読んで、もっと沢山指摘した方がいいかもしれない。けれども同じようなことを、すでに度々繰り返しているから、もうそれにもたえない。ここらで止めましょう。
底本:「三田村鳶魚全集 第廿四巻」中央公論社
1976(昭和51)年12
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