島田のごとき、当時の第一人とさえ聞えた人物に、鍔競合なんてばかげたことがあろうはずがない。こういうばかなことを書くのはあさましい。一度作者がこんなことを書き出して以来、その後にめちゃめちゃな剣道、柔道の話が簇出《ぞくしゅつ》した。その俑《よう》を作ったのは恐るべきことである。

     下

 今度は一冊飛んで、第二巻の一番しまいにある「伯耆の安綱の巻」というのを読んでみました。これも甲州の話で、作者の生れたところに遠くない土地の話です。それだからまず間違いのない方になっている。殊に場所が場所だし、誰もあまり知っている所ではありませんから、まことに目立たなくなっていいかと思う。
 ここで第一番に出て来るのが、有野村の馬大尽というものの家のことです。
 この本の頁でいえば、五四四頁のところに、お銀という馬大尽の娘のことを書いて、「着けてゐる衣裳は大名の姫君にも似るべきほどの結構なものでありました」とある。いくら大百姓でありましても、大名の息女に似寄ったなりなんぞをするということが、この時代から取り離れたことでありますし、「大名の姫君にも似るべきほどの結構なもの」というのは、どういうものを着ていたのかわからない。作者もそれが何であったかということを説明していない。この女が髪の美しい女であって、「それを美事な高島田に結上げてありました」とも書いてあるが、大名の姫君というものは、高島田などに結っているものではないはずだ。これはどうしたことか。
 これからこの娘が父親のことを、「父様《とうさま》」といっている。いくら大尽の家の親父にしたところが、その子供が「父様」なんていうことはないはずだ。
 五四九頁になると、この馬大尽の家の女どもが、主人のことを話している。これは甲州の在方の話らしいのに、「なのよ」というような、すこぶる新しいところを用いている。これが文久頃の甲州の女だと思うと、よっぽど不思議な気持がする。ここで、この家の女房のことを、「奥様奥様」と言っているのは、例によっていけません。「変なお屋敷でございますよ」ともあるが、百姓の家をお屋敷というのも何だか変だ。
 五五〇頁になって、「こんな大家の財産と内幕は、わたし達の頭では目当が附きません」ということがある。今日からみると、何でもないようなことであるけれども、この時分の田舎の女が、「わたし達の頭」なんて、「頭」ということを持ち出すのはおかしい。時代離れがしている。ここで前の娘のことを、「お嬢様」と言っているのも、奥様同様百姓家には不釣合である。
 五五四頁に、お銀という娘の言葉として、「あの娘は綺麗な子であつたわいな」ということがある。「わいな」なんぞも、随分変な言葉だと思う。
 それからこの百姓大尽の家に使われている幸内という若い者のことを書いて、「見ると幸内は小薩張《こざつぱり》した袷《あはせ》に小紋の羽織を引かけて」云々(五五六頁)といっている。百姓の家に使われている者などが、小紋の羽織を着るものか、着るものでないか。
 五五七頁に、お銀がお君という女中を呼んで来いと言う。それを傍輩の女中が羨しがって「お前さんばかり、そんなお沙汰があつたのだから」と言っている。こういうことは武士の家でも、よほどいいところでなければいけない。お沙汰という言葉が、どんな場合に用いられているか、少し昔のものを見れば、すぐわかる話です。いかに大尽にしたところが、百姓の家の召使が、「お沙汰」なんていうのは不釣合な敬語である。
 五五八頁に「お君はお銀様の居間へ上りました」とある。「上りました」というなら、「御居間」といいそうなものだが、そこまでは行き届かなかったとみえる。「上りました」も、百姓の家には不釣合だ。
 五六三頁にも、お銀の言葉として「其方《そつち》のお邸へ行つてはなりません」というのがある。この大百姓の家は、主人、姉娘、弟と区切って、住居が拵えてあるらしいが、その一つを指してお邸というのは、他に例のない言い方である。妙に気取ろうとするから、世間無類な言葉も出てくるわけか。そんなに大名めかしい生活をしているのかと思うと、その次の頁には、「三郎様は大きな下駄を引ずつて雨の中を笠も被らずに悠々と彼方へ行つてしまひます」と書いてある。三郎というのはお銀の弟で、「十歳ばかりの男の子」なのですから、子供が大人の下駄でも穿いて来たんでしょう。それは民間によくあることだからいいが、大名めかしい生活の家とすれば、相当に付きの者もいるし、その他にいろんな者もいるはずだから、子供がむやみに大人の下駄を穿いて出るなんていうことは、させもせず、また相当な家に育った子なら、そんなことはしないはずだ。大名・旗本といわず、大百姓・大町人にしても、子供のために別に住居を拵えておくほどなら、その子供が沢山下駄の脱いであ
前へ 次へ
全8ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
三田村 鳶魚 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング