日を送っていました。それにもまして悲しい事が良人《おっと》の政治関係で嵐の様に起って参りました』
『何んです、それは?』
『一語申上げれば御解りでしょうが、二十七人連判状の件です』
『アッ、そうですか!』
 ルパンが眼前に閉された垂帳《カアテン》は豁然《かつぜん》として開かれた。彼が今日まで黒暗々裡に、暗中模索に捕われていた迷宮に、忽焉《こつえん》として一道の光明が現れたのを覚えた。
 クラリス・メルジイは確《しっ》かりした口調でなお語り続ける。
『ええ、名前が載っているとは申しますものの、過失《あやまち》と云うよりは、不幸でしたのでしょう、つい犠牲になってしまったのです。当時メルジイは両海運河工事調査委員を致しておりました所から、会社の計画に賛成する者と一緒になってその方《かた》の投票を致しました。ええ、受取りました。確《たしか》に十五万|法《フラン》の金を会社から受取りました。しかしその金はある親密な政友の懐に入ってしまって、その政友の道具に使われたに過ぎないのでした。夫は少しもやましい所がないと信じていたのが大間違いでして、まもなく運河会社社長の自殺、会計課長の行方不明の事から運河事件に醜関係のある事が暴露致しまして、その時初めて、気付きますと、同僚の者が皆会社から買収され、各党の領袖《りょうしゅ》や、有力な閣員をはじめ収賄議員の名前が、秘密の連判状に乗っていると云う評判が立ちました。私どもは非常に心配致しました。その連判状が公表されはしないか、名前が世間に出はしないかとホンとに命も縮む様でございました。あなたも御承知の通り、議会は非常な騒動で、議員達も戦々兢々《せんせんきょうきょう》と云う有様でした。誰れがその連判状をもっているかは、少しも解りません。とにかく連判状があると云う事だけは確かでした。世間から睨まれた二人、その二人は嵐の中《うち》に葬られてしまいましたが、さて、誰れの手にその連判状が握られているかはとうとう分らずにしまいました。』
『ドーブレクですか?』とルパンが云った。
『いいえ。ドーブレクはその頃は名も知られない男で、まだ舞台へは現れて参りません。ところが、意外にも突然連判状の所在が知れました、と云うのは自殺した運河会社社長の従弟《いとこ》であるジェルミノーさんが肺病で死ぬる間際に、警視総監に手紙を途《おく》って、実はあの連判状は自分の室《しつ》の金庫内に保管してあるから、自分の死後取り出してくれと申したのでございます。ジェルミノールさんの邸は直ちに警官で厳重に警戒し、総監は病床に付き切りでしたが、ジェルミノールさんが、死なれたので、金庫を開けて見ると、中は空虚《から》……』
『今度はドーブレクですな?』
『ええ、ドーブレクです』とメルジイ夫人の感情は次第に興奮して来た。『アレキシス・ドーブレクは、どうしてあの有名な書類がジエルミノーの手にある事を知ったか存じませんが、とにかく六ヶ月|前《ぜん》から巧みに変装して、ジエルミノーの書記に住み込み、あの方の死ぬ前の晩、金庫を破壊して窃《ぬす》み取ったのです。調査の結果、それがドーブレクの所業《しわざ》である事が解りました』
『だが、捕縛しないじゃありませんか?』
『でも仕様がありませんもの。ドーブレクはすぐにそれを安全な所へ匿《かく》してしまったでしょうし、それに捕縛など仕ようものならば、あの醜穢《きたな》い問題がまたまた火の手を揚げて、暗《くらやみ》の恥をあかるみへ出す様なものですからね』
『フム、なるほど?』
『そこで、ドーブレクと妥協をしたのです』
『エ、ドーブレクと妥協、こりゃ怪しい、ハッハ……』とルパンは笑い出した。
『まったく、をかしいんですよ』とメルジイ夫人は苦々しげに『この間にも、ドーブレクの方では早くも活動を開始しまして、最初の目的へ進みました。窃《ぬす》み出してから八日目に議院に夫を尋ねて参りまして、二十四時間以内に三万|法《フラン》の金を出せ。出さなければあれを発表して社会から葬ってやると脅迫しました。あの人間を知っている夫《たく》は、出さねばどんな事をされるか解らない、と云って金の調達は早々《はやばや》に出来ず、つい思案に余ってあの通り自殺致しました。……ですから、あの連判状を種に脅迫された方々は金を出すか、自殺するより外《ほか》に途《みち》がないのです』
『フーム、実に悪辣な野郎だ』
 しばく沈黙している間に、ルパンは兇悪無残なドーブレクの生活を考えてみた。彼が一度連判状を握るや、これを材料《たね》にして盛《さかん》に暗《やみ》から暗へ辛辣な手を延ばして、大金を強請《ゆす》り取り、ついには閣員を脅迫して代議士になりすまし、当路の大官、醜代議士連の弱点を押えては私利私欲を恣《ほしいまま》にしているが、当事者もこの一個の怪物をいかんともする事が出来ず、毛を吹いて疵を求むる底の事を為すよりは、唯々諾々として怪兇の命にこれ従うより外《ほか》はないのであった。ただし唯一の対抗策としてプラスビイユを警視総監に抜擢したのも、要するにドーブレクと個人的に仇敵の間柄であるためで、わずかにこれをもって政府の大敵たるドーブレクに対抗せんとする真意に外《ほか》ならないのだ。
『で、あんたは彼と御会いですか?』
『ええ、時々会いました。と申すよりは会わなければならなくなりました。夫《たく》は死にましたが、名誉はまだそのままとなって、誰れもその真相を存じていません。ですから私は最初に、ドーブレクの会見申込に応じました』
『その後、たびたび御会いですか?』
『幾度も会いました』と夫人は力ない声で云った。『ええ幾度も会いました……劇場とか……夜、アンジアンの別荘とか……パリーの邸とかで……それも夜です……と申しますのは、私もあんな男と会うのを人に見られるのが恥しいからでございます。しかしそれも私の胸にある一年から余儀なくああしなければならなくなったのでして……私の夫の讐《あだ》を晴らしたいばっかりに……ええ、復讐です。私の今日までの行動も、生きていると云うことも、ただこの一念からでございます。夫の仇、我が子の仇、私の仇、あらゆる苦しみを与えられたこの私の仇、それを晴らします……私はこの外《ほか》に何の望みもありません、何の目的もありません。私の望む所は、ただあの男を踏みにじり、彼の苦痛、彼の涙を見たいばかりです……あの鬼の様な男にも涙があるか……それを見とうございます。あの男の悲涙《ひるい》、あの男の絶望!』
『あの男の死もまた欲するんでしょう』とルパンは過ぎし夜の彼等両人の悲劇を思い出して云った。
『いえ、殺したくはありません。そんな事を思わぬでもなかったのですが……殺そうと刄の腕を振り上げた事もございましたが……あの男だってそのくらいの用心はございます。のみならず、あの連判状が残っておりますし、それに、何も殺すばかりが復讐ではございません……私の恨み憎しみはもっともっと深うございます、死にまさる苦痛を与えて、この世からあの悪人を滅《ほろぼ》さなければ止みません、それにはただ一ツの方法、あの連判状を奪い返し、その爪を剥いでやります。ドーブレクは連判状《あれ》を持っていてこそ、力もありますが、あれがなくてはドーブレクの存在がございません。その時、その時こそドーブレクが、哀れな姿となって自滅します。私の求めているのはただこれだけです』
『しかし、ドーブレクはあなたの計画を知らないではいますまい?』
『無論知っています。知っていながら、私どもは妙な会見をしています。私はあの男を監視し、その一挙一動から、その一言半句から、隠された秘密を捜《さぐ》ろうと致しますし、その男は……あの男は……』
『あの男は……』とルパンはクラリス・メルジイの胸中を推察して『あの男は、その望む餌食を狙っている……今なお愛する事を止めない婦人を狙って……あらゆる手段をもって手に入れようとしているんですね……』
 彼女は頭を垂れて、ただ『ええ』と云った。
 実に不思議な闘争かな。ドーブレクはその已み難き情熱のために、求めて讐敵の的となって、彼が生命をさえ奪わんとする女をば、いかにもして手に入れんものと、我から接近して行く。男は恋のため、女は怨《うらみ》のため、互に相会う不可思議な闘争!
『して、あなたの活動の結果は……どうでした?』
『長い間の捜査の苦心も、ほんの無駄骨を折ったに過ぎません。あなたの為すった捜査の方法、または警察の方でしている調査の手段、それ等は皆、私が数年前から試みたことで、すべて無駄でございます。私はほとんど絶望の淵に沈みましたが、ある日アンジアンの別荘にドーブレクを尋ねて参りまして、ふと書斎の卓子《テーブル》の下の屑籠の傍へ投げ出されあった皺苦茶の手紙の片端を見ましたので、何心なく拾い上げて読みますと、自筆の覚束ない英語で、
[#2字下げ]「水晶の内部を空洞となし、その空洞なる事を何人といえども看破し得ざる様に御製作|相成度《あいなりたし》……」
 と書いてございました。この時庭に居りましたドーブレクが大急ぎで駈けて参りまして四辺《あたり》をしきりに捜し廻らなかったらば、私はおそらくこんな紙片《かみきれ》を気に留めなかったでございましょう。あの男《ひと》は、猜疑《うたぐり》深い目で私を見ながら、
「ここにあったはずですがな……手紙が……」
 私は何の事か解らない風を装っていましたので、それ以上別に何とももうしませんでしたが、その急々《そわそわ》した様子を私は見逃しませんでした。その後一ヶ月ほど致しまして、私は広間の暖炉《ストーヴ》の灰の中から英文の手紙の半片を拾いました。ストーアブリッジの硝子商ジョン・ホワードから、ドーブレク代議士に、見本通りに製作した水晶の水差しを送ったもので、「水晶」と云う文字に気が付きましたから、私は早速ストーアブリッジに参りまして、その店の副支配人を買収して聞き正しました所によりますと、代議士の註文通り、「水晶の内部を空洞となし、その空洞なる事を何人といえども看破し得ざる様に」製作したものだそうでございます』
『フーム。なるほど、間違いのない調査ですな。けれども、私の思うには、金の線の下と云うと……隠匿場所は実に微小なものですね』
『微小ですが、それで十分なのです』
『どうして知りましたか』
『プラスビイユから』
『じゃあんたは知っていたんですな?』
『ええ、その当時から、その前までは、夫《たく》も私《わたくし》も、ある事件のためにあの方とは一切関係を絶っておりました。ブラスビイユはずいぶん卑劣な性《たち》で、それでいて浅薄な野心家でして、両海運河事件には実に醜劣な仕事をしていたのでございます。収賄ですか? きっとしています。しかしそんな事を関《かま》ってはいられませんでした。私は助力者が欲しかったのです。当時あの男は警視庁の官房主事に任ぜられましたので、私は遂にあの男を選ぶ事に致しました』
『彼れは御子息のジルベールの行動を知っていましたか?』とルパンが途中で口を挟んだ。
『いいえ。あの方の位置が位置ですから、私も相当用心致しましてこれまで世間の人々に話した通り、ジルベールは家出をして死んだとだけ申しておきました。ただ、夫が自殺をした原因と、私がその復讐を決心した次第を打ち開けまして、ただ今申上げた通り、水晶の栓の秘密を発見したことを話しますと、ブラスビイユも非常に喜びまして、種々《いろいろ》相談致しましたが、結局あの方の話に依りますと、その連判状に用いた紙は非常に薄い特製の用箋で、畳み込めば、非常に微小なものとなって、どんな小さい穴へでも隠せるとの事でした。こう解りますと大変張合も出来ますし、また私にしろ、あの方にしろドーブレクとは仇敵の間ですから、極秘の裡に打合をしつつ、めいめいそれぞれの活動を始めました。第一に女中のクレマンスを味方に引き入れました。え? ええただ今ではプラスビイユの方へだいぶ力を尽しておりますが、当初は私どものために計《はから》ってくれました。ちょうどこの時分、今から十ヶ月ほど前ですが、ジルベールが私を尋ね
前へ 次へ
全14ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
新青年編輯局 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング