物を持っていられますが、それは、それ自体ではつまらんものでしょうが、ある方面には非常に貴重な価格のあるものです。この品物はあなたも御承知の通り、二度あなたの手に入りましたが、二度とも私《わたくし》が奪い返しました。それは、もしあなたの手に入ってあなたのために利用せられては非常に困ると思いましたからでございます……』
『利用するって何にですか?』
『エエ、それです。伺いたいと申すのは?』
 そういう彼女の力強い眼と真剣さとはかつて見た事の無いほどだった。
 ルパンはついに躊躇するところなく断言した。
『私《わたくし》の目的は至極簡単です。すなわちジルベールとボーシュレーの二人を救うにあるのです』
『それは真実《ほんとう》ですか?……真実《ほんとう》ですか?……』と婦人は身を慄《ふる》わし不安の眼を輝かして叫んだ。
『私《わたくし》は知っています……私《わたくし》はあなたの何人であるかを知っています……またあなたに気付かれないで、私《わたくし》があなたの生活に立ち入ってからすでに数ヶ月になります……ですが、ある理由で私《わたくし》は今に疑問にしていることがあるのでございます……』
 ルパンは言葉に力をこめて、
『いやあなたはまだ私を了解していない。もし私を了解しているならば、私に対して疑《うたがい》を挟《さしはさ》む事が出来ないはずだ。あの二人の部下、いや少なくともジルベール……ボーシュレーは悪漢ですから別としても……だけはあの恐ろしい運命から救ってやらねばならないのです……』
 婦人はこの時狂気のごとく、やにわに彼の両肩に獅噛《しが》み付《つ》いた。
『エ? 何を仰います? 恐ろしい運命?……あなたはそう御考えになりますか、あなたは真実《ほんとう》に……』
『真実です』と彼は明確に答えた。ルパンはこの一言《いちごん》がいかに彼女を狼狽《ろうばい》させたかを知った。『それはジルベールから来た手紙で明かです。彼《あれ》は私だけを頼りにしています。自分を救い出すものは私より外《ほか》にいないと信じています。この手紙です』
 婦人は手紙を奪う様にして読んだ。
『助けて下さい、首領《かしら》……駄目です……私は恐ろしい……助けて下さい……』
 彼女はバッタリ手紙を落とした。手をぶるぶる慄《ふる》わせ、血走った両眼を見開いて、恐ろしい幻影を見詰める様であった。が、それも一瞬、彼女はあっ! と叫びながら恐怖の悲鳴を上げて打倒《うちたお》れた。

[#8字下げ][#中見出し]※[#始め二重括弧、1−2−54]五※[#終わり二重括弧、1−2−55]死の連判[#中見出し終わり]

 子供は床《とこ》の中に静《しずか》に睡《ねむ》っている。母はルパンの手で長椅子の上に横に寝かされて身動きもしない。しかし段々と呼吸《いき》も穏かになり、血の気もその頬に潮《さ》して来て、ようやく回復の徴候が現れた。
 ふと見ると彼女の胸に小さなメタルが垂《さ》がっている。何心なく手に取り上げて裏返して見ると、四十歳前後の立派な紳士と、中学校の制服を着、房々《ふさふさ》した髪の毛をした紅顔の美少年との写真があった。ルパンはそれを見ると、
『思った通りだった……ああ、可憐想《かわいそう》な婦人だ』と一人で呟いた。
 その内に彼女は全く意識を回復した。しかし依然として堅く口を噤んでいるので、ルパンは必要な質問をし始めた。そして写真の入れてあるメタルを指して、
『この中学生はジルベールでしょうね?』
『ええ』
『してジルベールはあなたの子供ですね[#「ですね」は底本では「すでね」]?』
『ええ、ジルベールは私の子です、長男でございます』
 果然、この婦人はジルベールの母親であった。サンテ監獄に囚われ、殺人犯の名の下《もと》に検事の峻酷《しゅんこく》な取調べを受けつつあるジルベールの母親であったのだ!ルパンはなおつづけた。
『そして、この紳士は?』
『私の亡くなった夫でございます』
『あんたの配偶者《おつれあい》?』
『ハイ。亡くなりましてから、もう三年になります』
 彼女は再び椅子に身を伏せた。想い出す悲しき生涯、生くるも怖ろしきこの身の、すべての不幸がことごとく我身に迫る脅迫と見ゆる過去の生涯を想い出したのであろう。
『配偶者《おつれあい》の御名前は?』
 彼女はちょっと躊躇したが、
『メルジイと申します』
『エッ。あの代議士のビクトリアン・メルジイ?』
『ハイ、さようでございます』
 両人《ふたり》の間に長い沈黙が続いた。ルパンはあの事件、あの死が喚起した世論を忘るる事が出来なかった。今から三年前、下院の廊下において、メルジイ代議士は、何等の遺言もなく、かつまた何等の説明と認められるべきものをも残さず、突然疑問の短銃《ピストル》自殺をしてしまった。
『あの自殺の理由……』とルパンはしばし黙考してから声高に云った。『あなたは御存じないはずありませんね?』
『ええ存じておりますとも……』ルパンが尋ねるまでもなかった。メルジイ夫人は、黙しておられなくなったと見え、一人心の底に包んでいた悲しい長い物語をポツリポツリとしずかに語り始めた。
『二十年|前《ぜん》でございますが、当時私はクラリス・ダルセルと申しまして、両親と共にニイスに住んでおりましたが、その頃宅へ参ります三人の青年がございました。すなわちアレキシス・ドーブレクと、ビクトリアン・メルジイと、ルイ・プラスビイユと申上げれば此度《こんど》事件の裏面《りめん》はほぼ御解りでしょうと存じます。この三人はもとから竹馬の友で、学校も同じければ、軍隊も同じ連隊でした。その時、プラスビイユはニイスのオペラの女優を愛しておりましたが、メルジイとドーブレクとは私《わたくし》に思《おもい》をかけていました。その間に色々な経緯《いきさつ》がございますが、簡単に申上げましょう。事実だけお話し致せば十分でございます。最初から私はビクトリアン・メルジイを愛していましたので、すぐ、この事を打ち開ければ、間違いも起らずに済んだのでしょうが、真の恋は躊躇《ためら》い、怖れるかと申しまして、私《わたくし》も確とした意見も言わず、あやふやに過して参りました。不幸《ふしあわせ》な事には、私《わたくし》ども二人がこうした隠れた恋に酔いまして、時期を待っています間に、ドーブレクの思いをいよいよつのらせました、で、全く話が決った時の、ドーブレクの憤怒《いかり》と云うものは一通りではございませんでした。……』
 クラリス・メルジイはちょっと話を止めたが、怖ろしい想い出に身をふるわせつつ、
『今でも決して忘れは致しませんが、……三人が客間に落ち会いました時……そのドーブレクが恋の遺恨から吐き出しました悪口雑言《あくこうぞうごん》、あの凄い声は今だに私の耳に残っております。ビクトリアンも困ってしまいましたほど、あの時の様子の怖ろしさ、獣の様な……、ええ、怖ろしい野獣の様な表情を致しまして……歯を喰いしばり、足をふみならして申しました。その眼色《めいろ》……当時眼鏡はかけておりませんでしたが……ギロリと光る眼をきっと見据えまして、『この恨は晴らすぞ……きっと晴らしてやるぞ……貴様達に俺の力はわかるまいが……俺は待つ、十年でも、二十年でも……その時は落雷の様に荒らしてやる……ああ、貴様達は知るまいが……復讐……この恨を晴らすために……晴らすために……ああ愉快だ……俺は復讐のために生きるんだ……俺は貴様達に跪《ひざまづ》いて憐《あわれみ》を乞わしてやるんだ……地面《じべた》へ手をつかして……』と猛り狂うのを折よく入って来た父と下男との手を借りてメルジイが戸外へ突き出しました。それから六週間ばかりして私はビクトリアンと結婚致しました』
『それで、ドーブレクは? 何か妨害を加えませんでしたか?』
『いいえ。でも不思議なことには結婚式に列して下すったルイ・プラスビイユさんが宅へ帰られてみると、その、恋人の女優さんは……何者かに頸を絞められて、惨死していらしたのです……』
『エッ! 何んですって?』とルパン[#「ルパン」は底本では「ルバン」]は跳《おど》り上って驚いた。『ではドーブレクが……』
『ドーブレクがその女優を付け狙っていた事はわかっておりますが、何分証拠がない事には致し方がございません。ドーブレクが女優の処へ来たと云う証拠もなく、何《な》に一ツ手懸りを得ないので、どうも仕様がありませんでした』
『だがプラスビイユは……』
『プラスビイユさんも、私《わたくし》ども同様何も解りません。恐らくドーブレクが女を連れて、どこかへ逃げようと致しました処、女優さんが云う事を聞かず、激しく抵抗したので、かっとなって喉を掴んで殺してしまったのでしょう。しかしそれにしても証拠が一ツもないのでついそれなりになってしまいました』
『それからドーブレクはどうなりましたか?』
『それから数年の間は、何をしていたかちっとも消息《たより》を聞きませんでしたが、噂によりますと、何《な》んでも賭博ですっかり財産を無くしてしまい、内地にも居られなくなってアメリカに渡ったそうです。そんな訳ですから、私《わたくし》も、忘れるともなしにあの脅迫や憤怒のことを忘れてしまい、ドーブレクもう私の事を断念《あきら》めて、復讐の念を断った事と存じていました。その内に良人《おっと》が政界に出ましてからは、良人の出世とか、家庭の幸福とか、アントワンヌの健康なぞに心をとられていました』
『アントワンヌ?』
『ええ、実はジルベールの本名なのでございますが、さすがにあれも、身を恥じて本名を隠していたのでございましょう』
 ルパンはちょっと躊躇していたが、
『で、いつ頃から……ジルベールが……始めたのです?』
『いつと明確《はっきり》申上げかねますが、ジルベールは――やはり本名を申すよりこの名の方がよろしゅうございます――ジルベールは幼少の自分は愛嬌のある可愛らしい子供でしたが、ただ勉強が嫌いでなかなか強情張りでした。家に置きますと我侭も増長致しますから、十五の時に巴里《パリー》から少し離れた郊外にある中学校の寄宿舎に入れましたが二年と経たない内に退学されて参りました』
『なぜです?』
『品行が悪いんです。学校の方で調べた処によりますと、夜寄宿舎を抜け出たり、あるいは数週間も学校に帰らないで、家事上の都合で家《うち》に帰っていたなどと言訳をしていたそうでございます』
『何をしあるいていたんのでしょう』
『遊びあるいていたのです、競馬場へ入ったり、珈琲店《カッフェ》や舞踏場《おどりごや》へ入り浸っていたのです』
『そんなに金を持っていたのですか?』
『ええ』
『だれから貰っていたのです?』
『ある一人の悪漢が、親に内緒で金を貢いで、学校を抜け出させて、段々と堕落させる様に仕向け、嘘を吐くこと、金を遣うこと、盗みをすることなどを教わったのでございます』
『それはドーブレクですか?』
『そうです』クリラス・メルジイはしばし面《おもて》を両手に伏せて暗然としていたが、また語《ことば》を続けて、
『ドーブレクが復讐をしたのです。良人《おっと》もとうとう愛想を尽かして、ジルベールを勘当致しました。その翌日、ドーブレクはずいぶん皮肉な手紙を寄越しまして、あの子を堕落させようとした企みの成功した事を誇らしげに述べ、終りに「最近には感化院の御厄介となり、……次いで裁判所に曝され……終りに断頭台上の人となる事を希望致しおり候《そうろう》」ですって……』
 ルパンは叫んだ。
『何ッ! ではドーブレクの奴が今度の事件を細工したんですか?』
『いえ、いえ、それはほんのふとした間違いでして、あの忌わしい呪が事実になったに過ぎません。が私どもはそれ以来どんなに苦しんだ事でしょう。当時私は病気中でございまして、まもなくこのジャックが生まれました。それからと申しますものは、毎日の様に、ジルベールが行った悪事ばかりが耳に入ります、やれ偽造行使だとか、窃盗だ詐欺だと云う事ばかり……で私どもであれは外国へ行って、死んだと世間へは申しておりましたもののずいぶん悲しい
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