疑ってやしない』
『ですが外《ほか》の連中が……』
『外の連中? もし連中が俺を陥れるのを利益と思うなら、ずっと前に行《や》っていなきゃならない。五月蠅く思っているくらいのもので別に恐れていやしない。ではビクトワール、五時の鐘が合図だよ』
今一度ルパンを驚かすことが起った。それはその晩に婆やが寝室の抽斗を開けて見たら、例の水晶の栓が這入っていたと告げたことだ。しかしルパンは、別に顔色にまでは驚きを見せず簡単に言ってのけた。
『じゃ、誰か持ちもどったんだ。あの品物を持ち戻った人間! それは俺と同じようにこの屋敷に忍び込んでいるにちがいない。しかしその水晶の栓を何の重要さもないごとく抽斗の中へ放り込んで置くとは! これや考えもんだ。』
ルパンは考え物だとは言ってみたものの、何等そこから纏《まとま》った判断、または意見を引き出すことが出来ないので、かなり当惑した。しかしちょうど隧道《トンネル》の出口に見るような薄明りがぼんやりと射しているような気がした。
『この調子では俺ときゃつ等の間に激烈な競争の起るのは免《まぬ》かれ難い。その時こそ俺が優勝の地位を占めるんだ』と考えた。
かくて何らの発見もなく、ルパンは五日を過してしまった。それからまた二日過ぎた真夜中の二時頃、ルパンが二階から廊下へ下りようとすると、ふと扉《と》のきしる音を聞いた。その戸は庭に向いた玄関の方へ続いていた。彼は闇夜を透して見ると二人の男が梯子《はしご》を登ってドーブレクの部屋の前に忍び寄るらしい。耳を澄すと、微かに戸をこじ開ける音が聞える。風の間に間に人の耳語《ささや》き声も耳に触れる。
『工合《ぐあい》は?』
『うん。上等だ……だが明日の晩にのばそうだって……』
ルパンはその先を聞きとれなかったが怪しの男は静かに戸を閉めながら鉄門の闇に消えて行った。
午後になって、ドーブレクの留守を幸い、彼は二階の室《へや》の戸を調べて見た。一見して解った。扉《と》の下のはめ[#「はめ」に傍点]板が一枚巧みにはずされている。して見るとこの邸《やしき》で仕事をしようと云う連中は、かねて彼の家、マチニヨン町とシャートーブリヤン町の家へ忍び込んだやつらと同一だ。
ルパンにとって今日一日は暮るるに早かった。彼の眼前にはまさに一切の秘密が暴露せられんとしているのだ。ただに不可思議極まる、かつは巧妙を尽した手段によって室内へ忍び込む方法を知るのみならず、かくも科学的にかくも敏活な行動をとれる奇怪な敵の何者であるかを知る事が出来るのだ。
その晩、夕飯をすますとドーブレクは疲れたと云って十時に帰宅し、いつになく庭の扉《と》に閂《かんぬき》を差してしまった。こうなって来ると、例の連中はいかなる手段をもってドーブレクの室《しつ》に侵入せんとするだろうか?ドーブレクは電気を消した。例の連中は昨夜の時間より、やや早気味《はやぎみ》にすでに玄関の扉《と》を開けようとしている。試みは失敗らしく、数分間は静寂《せいしゅく》の裡《うち》に流れた。ルパンがさすがに手を引いたなと思う瞬間、悚然《しょうぜん》として戦慄した。静寂の中《なか》にごく微かな響《ひびき》も伝わらないのに、何者かが室内へ侵入して来た。いかに耳を傾け尽すともその階段の上へ昇って行く足音すら聞く事は出来なかったのに……。
怪しの沈黙は長い間続いた。暗黒裡《あんこくり》に姿も見えず音も聞こえず動く魔のごとき影、ルパンは何をしていいのか見当もつかなくなって躊躇《ちゅうちょ》した。時計が沈黙の中《うち》から二時を打った。それがドーブレクの室《へや》の時計だと云う事は解った。して見ると代議士の室《しつ》とは扉《と》一重《ひとえ》をへだてるだけだ。
ルパンは大急ぎで階段を降りて、その扉口《とぐち》へ近づいた。扉《と》は閉じられてある。左手《ゆんで》を見ると例の下のはめ[#「はめ」に傍点]板をはずした穴があいているらしい。
耳をすますと、ドーブレクはこの時寝返りを打ったらしく、大きい寝息が聞こえて来た。と思うとごくかすかに衣服《きもの》を動している様な響きが耳についた。怪物は室内にあってドーブレクが脱ぎすてた衣服を捜しているらしい。
『今度は少し事件が明るくなって来たぞ』とルパンは考えた。『だが畜生め、怪物はどうして忍び込んだんだろう? あの鍵と閂をどうして外したろう?』
しかしルパンは一瞬の間に自分のとるべき行動を決定した。彼は直ちに階段を降りてその一番下に陣取った。そこはドーブレクの室《しつ》と玄関の中間に位《くらい》するので、敵の退路はかくして完全にたたれた訳だ。
暗黒裡の不安がひしひしと身に迫る! ドーブレクの敵にしてまた彼の強敵たる怪物は、今まさにその覆面を取らんとしているのだ。彼の計画は完全した。敵がドーブレクから盗奪《とうだつ》したもの、それを彼はドーブレクの寝ている間に途中でうまうまと横奪《おうだつ》せんとするのだ。
宜《よ》し退却し始めた。その足音が手摺《てすり》から伝わって来る。彼はますます神経を尖らして次第に接近し来《きた》る怪敵を待ち受けた。突如、数|米突《メートル》の彼方《かなた》に敵の黒影らしいものを認めた。自分は暗い影に身をひそめているので発見される心配はない。
時は今だ! 不意にパッと飛び出したので敵も驚いて立ち止った。ルパンはサッと黒影を目がけて飛び付いた。がドシンと階段の手摺に衝突したのみで、敵は早くも下をくぐって玄関の半ばまで鼠の様に逃げた。ルパンは一生懸命|追《おい》かけた。そしてからくも庭の扉《と》の出口で捕《とら》える事が出来た。
アッと云う敵の声と同時に、扉《と》の向側《むこうがわ》からもアッと云う叫びが起った。
『ああ、畜生、どうしたんだいこりゃあ』とルパンは呟いた。その巨大なる鉄腕に掴まれたものは恐怖に戦《おのの》きふるえている小さな子供だ!
彼は子供をしっかと上衣《うわぎ》に包《くる》んで、ひしと抱きしめながら、絹半巾《きぬハンケチ》を丸めて早速の猿轡《さるぐつわ》とし三階へ駈け上った。
『ホラ、御覧よ』と驚いて跳ね起きたビクトワールに向って云った。『とうとう敵の団長を召捕ったよ。当代の金太郎さんだ。乳母《ばあ》や、お菓子をやっておくれ』
彼は団長を長椅子の上に置いた。見れば七ツか八ツくらいの男の子、毛糸で編んだ帽子を冠《かぶ》り、小さいジャケツを着ているがやや蒼《あお》ざめたいたいけな顔は可憐想《かわいそう》に涙に濡れている。
『まあ、どこから拾っていらっしたのですか?』
と、ビクトワールは驚いて尋ねた。
『階段の下のドーブレクの室《しつ》を出た所でだ!』
と云いながら、ルパンは例の室から何物かを持って来たのだろうと考えて、ソッとジャケツの衣嚢《ポケット》を捜して見たが、そこには何もなかった。その時ルパンは何を聞いたか、
『ヤッ乳母《ばあ》や、聞えるだろう?』
『何が?』
『金太郎君の部下の連中の騒ぎさ』
『まあ!』とビクトワールはもう色を失った。
『まあって云った処で、愚図々々《ぐずぐず》していて陥穽《わな》に落ちちゃあつまらない。そろそろ退却するかな。さあ、金太郎君いらっしゃい』
彼は子供を毛布にグルグルと包《くる》んで、顔ばかり出し、口には出来るだけ柔かに猿轡をはめ、乳母を手伝わして脊中《せなか》へしっかと結び付けた。
彼は窓を越えて、例の縄梯子を伝《つたわ》って庭へ下りた。外ではなかなか騒ぎを止《やめ》るどころではなく玄関をドンドンと叩いている。ルパンはこんな騒ぎの中で、ドーブレクが起きて来ないのを少からず意外に思いながら建物の角を通って、暗《やみ》に透して向うの様子を見ると、鉄門は開かれ、右手《めて》の石段の上に四五人の男が迂路々々《うろうろ》している。左手《ゆんで》の方は門番の家だ。門番の女は門口の石段の上に立って一同を取鎮《とりしず》めて居た。彼はその傍《そば》へ飛んで行って、首玉をグイと掴み上げ、
『オイ、子供は俺が連れて行くとそう云え。欲しけりゃシャートーブリヤン街へ受取りに来いってね』
街路を少し離れた処に連中の乗って来たと覚《おぼ》しい一台の自動車が待っていた。ルパンは横柄に構えて、仲間の風《ふう》を装い、その自動車に乗って、自分の邸まで走らせた。
『ねえ、ちっとも恐くはなかったろう?……さあ、おじさんの寝床へねんねさしてあげようか?』
召使のアシルは寝ていたので、ルパンは手ずから子供をおろして、やさしく頭を撫でてやった。子供は寒さにこごえていた。無理に恐怖をかくし、泣きたいのを我慢して、六《むつ》かしい顔をしているのもなかなかにいじらしい。
しかしルパンのやさしい声、その慈愛の籠った態度に安心してか、子供もだんだんと優しい無邪気な顔になって来た。しかもその顔は彼がかつて見た何者かの顔に似ている様な感じがする。……と同時に、彼は何だか形勢がたちまちここに一変して、この事件は今や根本から解決され得るような気もせられた。この時、玄関の呼鈴《ベル》が不意に消魂《けたたま》しく鳴った。ルパンはそれを聞くと、
『さあ、お母様が迎えに来たよ。じっとしておいでよ』
と云いすてて彼は走って行って戸を開けた。するとそこへ気狂《きちがい》いの様になった一人の婦人が、
『子供は? ……子供はどこに?……居ます?』と叫びながら駈け込んで来た。
『私の室に居るのだ』とルパンが云った。すると女は邸内の様子はちゃんと心得ているもののごとく、そのままルパンの室へ走って行った。
『灰色の髪の婦人だ』とルパンが呟いた。
『ドーブレクの友にして敵だ。俺の想像した通りだワイ』
彼は窓へ近づいてソッと外の様子を覗《うかが》った。二人の男が人道をぶら付いている。グロニャールとルバリュだ。
『俺の邸の前で面《おも》を隠さないとは図々しい野郎どもだ。だが面白くなって来たぞ、奴等もこの首領《かしら》に従わんければ何も出来ない事を今こそ覚《さと》ったんだろう。この上は灰色の髪の婦人と対談だ!』
母子《おやこ》は互に手を執りかわし、母親は心配の余り、眼に涙を一杯ためていた。しかしルパンがしたと同じく、子供のジャケツに手を差し入れて、目的物があるかないか捜していたが、無邪気な子供が、
『無かったのよ、母様、本統に無かったのよ』というと、彼女はわが子をしっかと、両腕に抱きしめた。子供は昨夜来の疲れと恐怖でまもなくスヤスヤと眠ってしまった。母親も、はなはだしく気疲れがしたと見えて、子供の上に頭を下げたままウットリとしていた。ルパンはその様子をジッと眺めた。美しい中にもどこかに気品のある容貌、それにいささかの面窶《おもやつ》れが見えて、人をして思わず深い同情愛憐の心を起さしめる。
ルパンは我知らず婦人に近づいて、
『私は、あなたが何を計画していられるか知らないが、しかしいずれにしても、有力な援助が必要です。あなた単独《ひとり》では、とても成功はしませんよ』
『私は単独ではございません』
『あすこに居る二人の男かね?私は二人とも知っている。がきゃつ等は問題にはなりません。私を利用なさい。先般、あの劇場で御話した事を覚えていらっしゃるでしょう。その節一切お話し下さるはずでした。今日はゆっくり承りましょう』
彼女はその美しい眼をルパンに向けて、長い間ヂッと彼の様子を眺めて見た。
『あなたはどれだけ私の事を御承知でいらっしゃいますか?』
『知らない事はまだたくさんにあります、第一私はあなたのお名前も知らない。しかし私の知る所では……』
彼女は突然その言葉を遮《さえぎ》り、思い切った強い調子で、
『御伺いする必要はございません。要するにあなたの知っていらっしゃる所はホンのわずかでかつ重要な部分ではございません、しかし、あなたの御考えはどうなのです? あなたは私《わたくし》に助勢してやると仰って下さいますが……何のためにですか? 失礼かもしれませんが、あなたも何か目的をもっていらっしゃるでしょう。私《わたくし》はまずそれを伺いたいのです。一例を申上ぐれば、ドーブレクさんはある品
前へ
次へ
全14ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
新青年編輯局 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング