は明日《みょうにち》、午後三時……そして場所は……』
と云いも終らぬに後方《うしろ》の扉《ドア》がパッと開いて、ドーブレクがヌッと現れた。
『チェッ! 畜生ッ』とルパンは今一言の所を破られて憤然と怒った。ドーブレクは嘲笑を投げて、
『フン、これだこれだ……どうも少し怪しいと思ったっけ……オイ、電話の手品なんざあ、少々時代後れだよ……気の毒ながら途中で戻って来たんだ』とルパンを傍《そば》に突き除けつつ、女の傍《かたわら》に腰をかけて、『オイ、貴様は一体何者だ?……おおかた警視庁の犬だろう?うるさく嗅ぎ廻わりやあがる』
彼は眉毛一つ動かさぬルパンをジッと見詰めていたが、さすがにこの男がかつて自分がポロニアスと綽名《あだな》をつけたあの食堂に隠れていた男と同一人だとは気が附かなかった。ルパンもなかなかに油断せず的の態度を見詰めながら今後の方略を考えていた。ここまで漕ぎ付けた計画を放棄する事は断じて出来ない。こうした一方女は片隅に身動きもせず堅くなって二人の様子を見詰めていた。
『外へ出よう、その方が話しが早い』とルパンが云った。
『ここでたくさんだ、今は幕間だし、人に邪魔されなくていい。……おっと、貴様、逃しはせぬぞ』
と云いつつ突然ぐいと猿臂《えんび》を伸ばしてルパンの襟頸《えりくび》を掴んだ。何たる無礼の振舞だ!ルパンたるものいかにしてかくのごとき暴戻《ぼうれい》に忍び得よう。いわんや婦人の面前である。彼が同盟を提議した婦人、しかも最初見た時から並々ならぬ美人だと思ったとおり繊妍《せんけん》たる容姿楚々たる風姿、その婦人の面前にあってどうしてかかる屈辱を忍ぼうや。満身の自負心は鬱勃《うつぼつ》として迸《ほと》ばしらんとする。しかし彼は黙然としていた。そして肩に受けた無双の大力に押されて、意気地なくも身体が折れ屈《か》がむまでに押え付けられてしまった。
『ああ、意気地無し、もうへたばるのか』と代議士は嘲笑した。
舞台の上では大勢の役者が立廻りの最中、大騒ぎをやっていた。ドーブレクは絞め付けた手を少しくゆるめた。ルパンはこの時にとばかり拳骨を堅めてちょうど斧で打殴る様に敵の腕節《うでぶし》を発止と突き上げた。
苦痛にドーブレクのたじろぐ暇に得たりとばかりルパンは身を起して奮然彼の喉に突きかかった。しかし敵も去るもの、パッと身をかわして、退くと同時に腕を延ばしてルパンを支えた。かくて四本の腕は超人的怪力をもって組んず解れつした。
二人は四ツの手を掴み合ったまま、身を踞《かが》めて互に隙を窺っていた、早く力の弛《ゆる》んだ方が喉を絞め上げられるのだ。息を殺して寸分の隙も無く組み合っている。しかも舞台ではシンミリした場面で一同息をのんで声の低い独白《せりふ》まで聞こえてくる。黙黙として、沈静。
婦人は身を椅子に支えつつ、怖れと駭《おどろ》きの眼を見開いて両者の挌闘を見詰めている。もし彼女が指一本動かしてどちらかに加勢すれば、その方は正に勝利を得るのだ。しかし、彼女|果《はた》して、何人《なんびと》に加勢するか?ルパンは重く力ある声で、
『さあ、椅子を退けなさい!』
と命ずるように云った。二人の間に倒れている重い椅子、その椅子を挟んで彼らは争っていたのだ。
彼女は身を屈めてその椅子を取り除いた。これこそルパンの睨《ねら》った機会だ。障害物が除去せらるるや否や長靴の尖《さき》でドーブレクの向脛《むこうずね》に得意の一撃を与えた。結果は彼が最初に敵の腕に与えた痛撃と同様、ウムと苦痛に呻《うめ》く刹那の隙を得たりとばかりドーブレクの喉と頸に両手をかけてぎゅっと絞め上げた。
ドーブレクは力の限り抵抗した。ドーブレクは絞め上げられた手を振りほどこうと努めたが、時既に遅く、次第に息が塞がり気力が抜けて来た。
『ああ!ゴリラめ!』とルパンは彼を引き倒しながら云った。『なぜ助けてくれと喚《わめ》かないんだ? 世間体を恐れるのか畜生ッ』
と云い様《ざま》、その頭に一撃を喰わすと、代議士は悲鳴を挙げて気絶してしまった。残る仕事は例の婦人を連れて、人々が騒ぎ出さぬ内にここを逃げ出すだけだと思って振り返って見れば既に婦人の姿は見えぬ。
逃げ出したにしてもまだ遠くへは行くまい。彼は続いて桝を飛び出した。そして案内女や桟敷番《さじきばん》が驚いているのに目も呉れず一散に階段を駈け降りると、婦人が今しもアンチンヌ並木町に面した出口の処へ走って行く姿を認めた。彼が追いすがった時に彼女は自動車の中に躍り込んでピシャリと扉《ドア》をしめた。彼は手を延ばして把手《ハンドル》を掴み扉《ドア》を開けようとした。その瞬間ヌッと男の姿が中から出るや否や、巧みな、かつ猛烈な拳骨をもってルパンの面部《めんぶ》を殴り付けた。
不意の猛襲にグラグラと目が眩んで倒れながらもその男を見た。それはグロニヤールとルバリユの両名、アンジアンの夜|端艇《ボート》を漕いだ両名、ジルベールとボーシュレーの同輩、すなわち彼ルパンの部下ではないか!
ようやくにしてシャートーブリヤン町の隠家《かくれが》に帰ったルパンは血にまみれた顔を洗って、失神した様に一時間も長椅子に横たわっていた。彼は始めて飼犬に手を咬まれた。始めてその部下から反抗《てむか》われたのだ。憤懣の気を休めようと機械的に傍《そば》にあった夕刊を取り上げて見ると、大文字《だいもんじ》の社会記事が目に付いた。
[#ここから2字下げ]
マリテレーズ別荘事件
マリテレーズにおける下僕《しもべ》レオナール惨殺犯人としてさきに検挙されたる両名中ボーシュレーなるものの素性は最近に至ってようやく判明したるが彼は極悪無道《ごくあくぶどう》なる前科者にて、すでに偽名をもってこれまで二回殺人罪の下に無期懲役に処せられたる兇漢の由《よし》。なお共犯者ジルベールの本名等判明するも遠きにあらざるべく、検事においては一日も早く事件を起訴の手続に及び審理に処すべき方針なりと聞く、従来とかく遅鈍の評ありし当局も本事件においてはややその面目を保ち得たりと云うべし。
[#ここで字下げ終わり]
他の新聞や書簡等の間から一通の手紙が出て来た。ルパンは一目この封書を見てハッと思った。それには「ボーモン(ミシェル)様」としてある。
『あッ! ジルベールからの手紙だ……』
中の書面は確かに十数字。
『首領《かしら》、助けて下さい! 恐ろしい……恐ろしい……』
その夜ルパンは悪夢に悩まされてマンジリともしなかった。そして物凄い、怖ろしい幻に襲われつつ彼は終夜悶えに悶えた。
[#8字下げ][#中見出し]※[#始め二重括弧、1−2−54]四※[#終わり二重括弧、1−2−55]敵の首領[#中見出し終わり]
あわれ、ルパン! 彼は現在の境地に捉わるることなく、他の一点を掴んで事件の展開を計らざるを得ざるに至った。しかしいかなる点に進むか――水晶の栓の追求を放棄しなければならないだろうか?
彼は去就に迷った。マリテレーズ別荘の殺人事件以来行方を晦《くらま》しているグロニアールとルバリユとの住んでいたアンジアンの別荘を想い出した。しかし、今彼等を問題としなくとも、ルパンはドーブレクに関係し、また関係せざるを得なかった。
「待て待て。感情のたかぶっている時には判断が間違って来る。だから黙って冷静に妄想を起さずに考えるんだ。事件の出発点を握らないで、いたずらに錯雑した事実ばかりに捉われているほど馬鹿々々しい事はない。そんな事をしているから迷宮から出られないんだ。だからまず、ルパン、お前の才能に聴け、お前の感得に依って猛進しろ。あらゆる論理的判断に俟《ま》つまでもなく、この怪事件は不可思議な栓を中心に渦を巻いているんだ。だから、そこへ勇敢に突っ込め、ドーブレクと問題の水晶とをたたきつぶせ!」
ルパンはこの決論を俟《ま》つまでもなく、早速実行に取りかかった。
彼はボードビルの劇場における事件の三日目に、古ぼけた外套を被って、頸巻《えりまき》に顔を埋め、ラマルチン広場からやや遠く離れたビクトル・ユーゴー街の共同椅子に腰を下ろしていた。自分の手許《てもと》へ来た報告によれば、ビクトワールは毎朝、この共同椅子の前を通るはずであった。
やがて買物篭を腕に抱えて、ビクトワールが遣って来た。見ると非常に昂奮して真蒼《まっさお》な顔をしている。
『さあ、これですよ、あなたの探しているのは……』彼女は前後を見廻しながら、篭の中から小さな品物を取り出して彼の手に渡した。ルパンは茫然とした。手には水晶の栓を握っている。
『ほんとかい? ほんとかいこれは?』
と呟いた。余り無造作に手に這入《はい》ったので、むしろ一種の失望をさえ感じていた。
しかし、現実の事実である。目に見る事も出来れば、手に触《ふ》るる事も出来るのだ。その形、その大いさ細かい金線の飾り、まぎれもなく彼がかつて手にしたことのある水晶の栓に相違ない。目につかぬほどの微細な傷がその栓の頸の処にあるものと見覚《みおぼえ》がある。品物に間違いはないが、うち見たところ、何等変った点もなく、ただ一個の水晶の栓に過ぎない。他の栓と区別すべき何の特徴もなければ、何の記号も印もない。一個の印を刻んだに過ぎないもので、別に不思議な点も見当らない。
『何だいこれは?』
ルパンはふと疑惑に捉われて云った。この水晶の栓に附随する価値を知らないで持っていた[#「持っていた」は底本では「持つたゐた」]処が何の役に立とう。ただ硝子の一片に過ぎないんだ。これを手に入れる前に、まずその価値を知らなければならない、ドーブレクからこれを奪い取って見たものの、それが馬鹿げたことでないと誰が確言し得ようか。
解き難き問題は非常な謎として彼の前に置かれた。
『下手な真似は出来ないぞ!』と考えながら、品物をポケットに納めた。『この怪事件で、下手な真似をしたが最後、万事は休する』
ビクトワールが、ルパンの傍《そば》を通った時、
『ジャンソン中学の裏手で逢おう』と彼は低い声で囁いた。そして五分後には人通りの少ない場所で落ち合った。
『婆《ばあ》や、全体どこでこの栓を見付けたんだ』
『寝床の側の机の抽斗《ひきだし》から』
『そうか。ところで先生無いことに気がつくと、お前が盗んだと思いはしないかい』とルパンが言った。
『きっとそう思いますわ。』
『じゃ早く返してお置きよ。大急ぎで』と言いながら、ルパンは上衣《うわぎ》の懐中を探した。
『さあ、どうしたの?』とビクトワールが手を差し出した。
『さあ』としばらくしてから、彼が言った。『無いよ!』
『何ですって』
『無くなっちゃったんだ……。誰か盗んだぜ』
彼は笑い出した。何らの苦痛も無さそうに腹を抱えて笑った。ビクトワールは腹を立てて、
『笑ってるどころの騒ぎじゃないんですよ……こんな大変な事に……』
『どうだいこれは? 実際妙不思議だね。まるで手品のようだ、少し暇になったらお伽噺《とぎばなし》を書くぜ。題に曰《いわ》くさ、魔術の栓またの名はアルセーヌ大失敗の巻……アハハハハ羽が生えて飛んでいったんだよ……。俺の懐中からパッと消えてしまったんだ……。まあいいからお帰り』と彼は乳婆《うば》を押しやりながら、真面目な口調になって『お帰り、ビクトワール、別に心配することはない。誰か、お前から俺があの栓を受取るのを見ていて、人込みを利用して、俺の衣嚢《ポケット》から掏《と》ったに違いない。これは俺たちの思っているよりもいっそう手近い処で吾々を監視している者があり、かつそれが一流の玄人だと言うことを証明している。だが繰返していうが心配することはない。正直な人達は神様が護ってて下さるんだ。ところで、婆や、外《ほか》に話すことはないかい』
『ええ、昨晩、ドーブレクさんの出かけた留守に誰れか来ました。私は庭から窓に映っている影を見ました』
『すると警視庁の連中はまだ捜索を続けているんだね。それはそうと、婆や……もう一度俺をかくまってくれんか、何も危ない事はないじゃないか。お前の部屋は三階に有るんだし、ドーブレクは何も
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