ールはウンと唸って気絶してしまった。ルパンは絶大の恥辱でも受けた時の様に耳朶《みみたぶ》まで真赤《まっか》になるのを覚えた。ルパンは一語も発しなかった。やがてビクトワールは仕事に出て行った。彼はその日終日室内に籠もって沈思黙考した。そしてその夜もまた一睡も出来なかった。
 かくて朝方の四時頃、家のどこかで異様の音のするのを聞いた。彼は俄破《がば》と跳ね起きて階段の上から覗いて見るとドーブレクが今しも階段を降りて庭の方へ行く様子。
 一分間ばかりすると代議士は鉄門を開き、厚い毛皮の襟巻ですっかり顔を包んでいる一人の男を案内して、己れの書斎へ連れ込んだ。
 こうした事もあろうかとルパンはかねてから相当の用意をしておいた。代議士の書斎と自分の居る室《しつ》とが家の裏手で、庭に面した方になっているので、彼は窓の処へ縄梯子を用意してあった。そして静かにそれを伝わって書斎の窓の上まで降りた。窓には窓帳《カーテン》が引いてあったけれども、ちょうど張った針金が少しゆるんで、上の方に弧形《こけい》の隙間が出来ていた。内部の話し声は聞えぬけれども、中の様子は逐一|覗《うかが》い見る事が出来る。
 見ると男だと思った客は意外にも女であった。緑なす黒髪に灰色の毛の二|条《すじ》三|条《すじ》交《まじ》ってはおれど、まだ若々しい婦人、身の廻りは質素だけれども、脊《せい》は高く、嫋々《なよなよ》した花の姿、いかにも長い間の哀愁を語っている様に思われる。
『ハテナ。あのお女はどこかで見た様な気がするが……?あの顔容《かおだち》、あの眼ざし、あの表情は確かに見覚があるが、ハテどこだったろう?』とルパンは考えた。
 女は卓子《テーブル》の前に突立ったまま、身動きもせずドーブレクの喋るのを聞いていた。彼もまた突立ったまま大いに興奮して何事か熱心に談じている様子だ。代議士はルパンの方に脊を向けてはいたが、壁の鏡に映った顔を見ると、その眼は異様に輝き蛮的な野獣的な欲望に燃えていた。
 女はその不快な視線を避けるために顔をうなだれ眼を伏せていた。ドーブレクは女の方へジリジリと進み、まさにその太く逞しい腕で女を抱きしめようとしていると、突如、ルパンは大粒の涙が彼女の悲しげな頬を伝わってハラハラと流れたのを認めた。
 ドーブレクはこの涙に唆《そそ》られたものか、乱暴にもその両腕で女をグイと捕《つかま》えて自分の方へ引き寄せようとするのを、彼女は満身の力を籠めて憎々しげに突き飛ばした。それでも彼はなお進もうとする、その顔には残酷醜悪な色が溢《みなぎ》っている。二人の視線ははたと合って、互に屹立《きつりつ》したまま深讐仇敵《しんしゅうきゅうてき》のごとくに猛烈に睨み合った。
 二人は黙って睨み合った。やがてドーブレクは椅子にかけたが、兇悪、冷酷な相貌して口唇《くちびる》には深刻な皮肉が浮かんで来た。彼は何事か条件を持出《もちだ》しているらしく、卓子を叩き叩き頻りに怒鳴り立っている。これに反して彼女は微動だもせず、傲然と立像の様に直立してはいたが、その眼は不安定に動いているらしかった。ルパンは雄々しくも悩み深き顔を瞬きもせず見詰めつつ、彼女が果たしていかなる思考《かんがえ》を持っているかを看破せんと少しも眼を放たず見ていると、不思議、彼女は軽く頭をめぐらすと同時に、その腕が気付かぬほど徐々に動き出した。身体の蔭になって彼女の腕は静かに動く。とその手は卓子の上を匐《は》う様にそろそろと進んで行く。ルパンがふと気が付いてみると、卓子の一端に水入があって、その硝子《がらす》栓には頭の方に黄金《こがね》の飾りが付いている。やがて手は水入に届いた。捜《さぐ》る様にしてそっと栓を抜いた。そしてチラッと振り向いて一目見るや否や、手早く栓を元に嵌《は》めた。きっと女が望んでいる品物でなかったに相違ない。
『オヤッ、不思議。あの女もやはり水晶の栓を探しているぞ。こりゃ事件《こと》がいよいよ錯雑《さくざつ》して来たわい』
 なおも息を殺して怪しい女客の様子を覘《うかが》っていると驚いた。彼女の表情はみるみる変って、その顔は恐ろしく物凄くなって来た。そしてその手は絶えず卓子の上を辷《すべ》って書籍をそっと押し除《の》けつつその間に燦《さん》として光る短刀に近づいたが、たちまちそれをキッと握りしめた。ドーブレクはあいかわらず熱心に喋り続けている。その背部には光る刃を持った繊手《せんしゅ》が静かに静かに振り上げられて行く。ルパンは女の血に餓えた凄まじい眼光が火の出る様に短刀を突き刺すべき頸《くび》の辺《あたり》にそそがれているのを知った。
 腕を差し上げて、女はやや躊躇《ちゅうちょ》の色が見えたが、それも束の間、キリキリッと歯噛みをすると一緒に振り上げた刃がキラリッと光った。
 電光石火、ドーブレクの身体はサッと椅子から流れて、匕首一閃《ひしゅいっせん》の繊手は哀れ宙に支えられてしまった。
 彼はこんな事は日常の茶飯事だと云わぬばかりに別に驚きも怒りもしないらしい。そして刃物三昧には馴れ切った男と見えてちょっと肩を聳《そびや》かしたまま、黙って室内を大股に歩き出した。
 女は刃物を投げ棄《す》てて泣き出した。両手を顔に押し当てて泣く、啜《すす》り泣くたびに頭から爪先《つまさき》まで身を慄《ふる》わせる。
 代議士は再び彼女のそばに来てなおも卓を叩きつつ何事か囁《ささや》いている。女は断然|頭《かしら》を振ったが彼がなお執拗に云うや、足をもって床を踏み鳴らしつつ、ルパンにも聞き取れるほどの声で決然《きっぱり》と云った。
『厭です……厭です……』
 すると彼は何も云わずに、女が着て来た厚い毛皮の襟付の外套を取って、これをその肩にかけてやった。女は襟を立てて顔を包んだ。
 女は出て行った。

 ドーブレクの生活はすこぶる規律的で、ただ警官の張込をといた暁方《あけがた》に二三の来客があるばかりであった。そこで日中は二名の部下を見張らせ夜中はルパン自身で監視する事にした。
 前夜と同じく午前四時頃一人の男が訪ねて来た。例によって覗いていると、その男はドーブレクに対して流涕《りゅうてい》して哀訴し合掌して嘆願し、最後にはピストルを振《ふる》って威嚇したが、ドーブレクはセセラ笑って取りあわない。ついにその男は千|法《フラン》の紙幣三十枚を代議士の前に差し出して帰って行った。門外に見張っていた部下から翌朝になって前夜の男は独立左党の領袖《りょうしゅ》ランジュルー代議士で生活困難家族多数という報告が来た。
 三日後に前大臣で、元老院議員ドショーモンが来、その翌日ポナパル党出身代議士アルビュフェクス侯爵が来、同じく哀訴嘆願の百万遍を尽《つく》して、最後に巨額の金や貴金属を取られた。
『きゃつは何かの秘密を握って、それを種に恐喝して金を捲き上げておるに相違ない。俺が幾日見張っていても仕様がない。何か局面を転換させずばなるまいが……と云って脅迫された連中に会ったところで、実を吐く気づかいは無い……』
 ルパンは思案に暮れて黙考《もっこう》していると、ビクトワールが電話室でドーブレクの電話を立聴《たちぎ》いていた。
 ビクトワールの話によると、ドーブレクは今夜八時半にある婦人と会見し、共に観劇に行くらしい。
『二ヶ月|前《ぜん》の様に桝《ます》を取っておきますが、留守中|盗賊《どろぼう》に見舞われては敵《かな》わないね』と笑いながらドーブレクが云っていた、という。
 代議士が観劇の留守中にアンジアン別荘を襲ったのは六週間以前だ。相手の女を知り、さらにでき得べくばボーシュレーとジルベールとがアンジアン別荘襲撃の当夜、代議士の留守を偵知した方法を看破するのが、目下の急務だ。彼は早速ドーブレクの邸《やしき》を抜け出してシャートーブリヤンの自邸へ帰った。そして最も得意とする露西亜《ロシア》貴族の変装に取りかかった。部下も自動車でやって来た。
 この時召使のアシルがミシェル・ボーモン宛の電報を受け取ってきた。訝りながら聞いてみると、
「コンヤ、シバイエクルナ。キミガクルトバンジダメニナル」
 彼の立っていた傍の暖炉《ストーブ》の上に花瓶があった。彼はやにわにそれを掴むと床の上に叩き付けて微塵《みじん》に砕いた。
『解った!解った!ウヌッ!俺の常套手段を取っていやがる。どうするか見ろッ!』
 彼は部下を引連れて自動車で飛び出し、ドーブレクの邸の少し手前で車を止めて待っていた。ドーブレクが邸を出ると、尾行の警官を撒《ま》くためにタクシーに乗るに相違ない。こうして自分の自動車を提供して易々と行先を突き止めようと云う計画だ。
 七時半、邸の小門がギーと開いた。来たなと思うと、不意に爆音すさまじく、疾風のごとく走り出した一台の自動自転車《オートバイ》がボアの方向をさして矢のごとく疾駆し去った。
『勝手にしやあがれ、畜生ッ!』とルパンはいまいましそうに呟《つぶや》いた。そして再び自邸へ引き上げた。夕食をすますと再び車上の人となって巴里《パリー》における有名な劇場調査を初めた。ルネサンス座や、ジムナース座に飛び込んで、立見から桝を眺めた。ドーブレクらしい影が見えなければ次の劇場へ……かくて午後十時に至ってボードビルでようやくそれらしいのを発見した奥まった桝に、二枚の屏風で姿を隠している二人連れ、案内人にソッと聞いてみると肥《ふと》った相当年輩の男とヴェールに顔を包んだ婦人とが居ると云う。その隣室の空ていたのを幸いにそこを買って入った。
 幕合《まくあい》の明るい光に照らされた横顔は確かにドーブレクだ。女の方は影になって姿が見えないが、二人は低い声で話し合っている。
 十分間ばかりすると二人の居る席の戸を叩くものがある。劇場の案内人だ。
『代議士のドーブレクさんと仰《おっしゃ》いますね?』
『ウム』とドーブレクは驚いて声を出した。『どうして俺の名が解ったか?』
『ただ今御電話がございました、二十二号の桝に居らっしゃるから呼んでくれと仰いました』
『だれからだ!』
『アルビュフェクス侯爵様でございます。……いかが致しましょう?』
『フーン?……いや行こう! 行こう……』
 とドーブレクはあわてて席を起《た》って出て行った。
 ドーブレクの姿が消えると入れ代りにルパンはスーと音もなく入って来て婦人のそばに腰をおろした。
『あッ! ……アルセーヌ・ルパン』と女は呟いた。
 ルパンもまた面喰《めんく》らって呆然たる事しばし、この女はルパンを知っている! 知っているのみならず、得意の変装まで看破してしまったのだ!
『さては知ってるか?……知ってるか?……』と呟きつつ彼は突如、女の顔を覆っているヴェールをパッと取り除いた。
『オヤッ!これは意外!』全く驚いた。彼は吃《ども》る様に云った。この女こそ、かつてドーブレクの邸で、深夜代議士に向って利刄を振りかざし嫌悪の力を繊弱《かよわ》き腕に籠めて一撃を加えんとしたあの女であった。しかし婦人の方でも少からず驚いたらしく、
『エッ!あなたはわたしを見覚えて居らっしゃるの?……』
『さよう、先夜、あの邸で短剱を振りまわした委細を見ています……』
 彼女は早くも逃げ出そうとした。が彼は手早くその手を引き止めて、
『あなたは一体|何《な》んです、ぜひそれを伺わねばなりません……だからドーブレクを電話で呼び出したのです』
『では、あの電話はアルビュフェクス侯爵では無いのですか、ではすぐ戻って来ます……』
『それまでに暇がある……まあ聞きなさい……ぜひ今一度あなたに会わなければならない……きゃつはあなたの仇です、ですから私があなたをきゃつの手から救ってあげます……』
『私を信用なさい……あなたの利益は、私の利益ですぞ……。どこで会いましょうか? 明日《みょうにち》? え?――時間は?……場所は……?』
 彼女は不安と疑惑の眼でルパンの顔を見詰めつつ躊躇《ためら》っていたが、やがて、明晰な口調で答えた。
『わたしの名は……申上げられません……まあとにかく一度御会いして御話を承りましょう……そう、御会い致しましょう……で
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