ん、誰も?』とアシルが飛び込んで来た。室内は空っぽだ。
『アッ。こりゃ妙だ!』と下男は叫んだ。『三十分前に念のために覗いてみた時には、ここの椅子に坐っていたんです。ちっとも怪しい様子は無かったんですが……待ちくたびれて、帰りやがったんだ。畜生奴《ちくしょうめ》、どこから失せやあがったんだろう!』
『どこから? ったって、別に不思議がるにも当らないよ』
『エッ?』
『窓からさ。ホラ。この通り窓が開いているじゃないか……夕方になればこの町は人通りが無くなる……だからよ』
 彼は四辺《あたり》を見廻したが、別に何等の異状が無かった。室内には大した貴重な家具も無ければ、重要な書類も置いてない。随《したが》って女の訪問の理由も、その突然不思議な消え方をした理由も解せなかった。
『手紙も来なかったか?』
『ええ今しがた一通来ましたので、あのお部屋の暖炉《ストーブ》の上に置きました』
 ルパンの部屋は客間の続きになっていたが、その間の扉《ドア》には常に鍵がかけてあるので、彼は玄関から迂回《うっかい》して行かねばならなかった。ルパンは電灯を点じたが、しばらくすると、
『オイ、手紙は見えないぞ……』と怒鳴った。
『そんなはずはありません?』
 アシルはそう云ってその附近を引掻き廻すように捜したけれども、影も形もない。
『チェッ、畜生ッ……畜生ッ……あいつだ……あいつが盗んだんだ……手紙を盗んで逃出しやあがったんだ……太え女《あま》め……』
『お前は手紙を見たか? 宛名は何と書いてあったか、覚えておるか?』とルパンは何かしら不安らしく云った。
『少し変な書き方でしたから覚えています。「ボーモン・ミシェル様」とありました』
『何ッ。きっとか? ミシェルが、ボーモンの後に書いてあったかッ?』
『確かにそうでした』
『ああ……』とルパンは喉を絞め上げられる様な声を出して『ああ、ジルベールからの手紙だ!』
 とばかり彼は不動不揺、やや蒼白になった顔には苦悶の浪が打ち出した。疑いもなくそれはジルベールからの手紙であったのだ。数年来彼は一見してジルベールからの手紙である事を知る必要から、時分の宛名に姓名の置換《おきかえ》をさせていたのだ。冷酷な鉄窓裡《てっそうり》に呻吟し、長い間の苦心惨憺! 厳重な獄裡の隙を覗《うかが》いつつ一字一句におそれと悲しみを籠めて書いた手紙、待ちに待った獄吏の通信! 何が認《したた》めてあったか? 不幸な囚人が何を訴えんとしたか? いかなる救いを求めたか?
 ルパンは室内を調べてみた。此室《ここ》は客間と違い重要な書類があったが、しかし少しもそれ等の抽斗《ひきだし》には手を触れていない処から判断すると、怪しの女はジルベールの手紙をねらった外《ほか》には何等の目的もなかった事が知れる。
 そして残る問題はいかにしてその女が手紙を盗み出したかと云う事である。ルパンが調べた時には居間の内部から完全に鍵がかかって錠さえ下してあった。しかし一度出入りした以上どこかに入口が無ければならないのみならず僅々《きんきん》数分時間の間に行われた行為とすると、それは必ず内部の隔ての壁に仕掛けがあって、その怪婦人が以前から知っておる場所であらねばならない。この推理から行くと壁面には何等の仕掛けを為すべき、またこれを覆い隠すべき何物も無い以上、それは必ず扉《ドア》に施されたものであるべきで、随《したがっ》て調査の範囲がはなはだしく限定されて来る。
 ルパンは再び客間に帰って扉口《とぐち》を調べにかかったが一目見て愕然として戦慄した。一目瞭然、扉《ドア》の羽目板は六枚の小板を合せたものであるが、その一番左手《ゆんで》の板が変な具合に嵌《はま》っておる。近よってよくよく見ると、その板は二本の細かい鋲で上下を止めてあるばかりで完全な嵌め込みになっていない。彼は鋲を外してみた。果然、羽目板はがたりと外れた。
 アシルはアッと驚愕の声を挙げた。しかしルパンは嘲笑う様に、
『え、それがどうした? やっぱり解らんじゃあないか? この穴は横が七八寸で縦が一尺五寸ばかりしかない。とても普通の女がこれだけの間から通れるものじゃあない。いくら痩せていても高々|十歳《とう》までの子供がやっと通れるくらいじゃあないか!』
 ルパンはやや暫くの間沈思していたが、突然、戸外《そと》へ飛びだして、急いで貸自動車《タクシー》に飛び乗った。
『マチニヨン街へ……大急ぎだ……』
 以前水晶の栓を盗まれた別荘の近くまで来ると彼はヒラリと自動車から降り、階段を駈け上《あが》って寝室の入口の扉《ドア》の羽目板を調べた。果然、案の定、そこも羽目板の一枚に細工がしてあった。シャートーブリヤン街の家同様に羽目板をはずすと肩まで入り得るくらいの穴があいたが、しかし、そこから上が錠にまではやはり手が届きそうにない。
『ウヌッ、残念!』と彼は唸った。二時間以来胸の中《うち》で煮えくりかえる様になっていた憤怒の情は押え切れなくなってついに爆発した。『駑畜生《どちくしょう》ッ! どうしても俺には解らねえ』
 不可解の問題が次ぎ次ぎに発生した。しかもそれが皆暗中模索の体為《ていたらく》、いくら考えてもまとまりが付かなかった。ジルベールが彼に水晶の栓を渡した。ジルベールが彼に手紙を送って寄越した。それが皆一時に消えて無くなった。
 今までに幾多の悪戦苦闘、冒険に冒険を重ねてきたさすがの彼も、こんな怪奇な障害に出会《でくわ》した事は一度もなかった。

[#8字下げ][#中見出し]※[#始め二重括弧、1−2−54]三※[#終わり二重括弧、1−2−55]怪代議士[#中見出し終わり]

 刑事等が家宅捜索をやった日の翌日、ドーブレク代議士が昼飯を外で食って帰って来ると、女中のクレマンが彼を引き止めて、大変いい料理女を見付けたと告げた。
 数分後御目見えに出て来た料理女は信用の出来る立派な身元証明書を持《もっ》ていた。相当な年齢《とし》のなかなか元気ものらしく、家事の仕事は人手を借らずにどんな事でも遣って除《の》けると云う。ドーブレクの希望している、条件を全部そなえていた。それについ先頃まで議員ソールバ子爵の家に奉公していたというので、ドーブレクは早速電話で照会すると、同家の執事が出て来て、その婦人なら申分《もうしぶん》ない料理女だからと云う返事であったので即座にこの女を傭《やと》うことに定《き》めた。彼女が行李《こうり》などを持ち込むと、すぐに家の中の拭き掃除にかかり、食事の用意をした。
 ドーブレクは夕食を済ますと、ブラリと出かけて行った。十一時頃女中のクレマンが寝てしまうと、料理女はそっと庭に降り、前後左右に深い用心をしつつ鉄門を半ば開いた。男がヌッと現れた。
『あなたですか?』
『そうだ、俺だよ、ルパンだよ』
 彼女はルパンを、案内して三階にある自分の室《しつ》へ引き入れた。
『また何か始めましたね。いつまでそんな事を為《な》さるんです! そしていつでもわたしを手先にして、ちっともこの婆やを気楽にさせては下さらないのですね』
『まあそう云うなよ。ビクトワール、(「813」及び「黒衣の女」参照)上品で、銭金《ぜにかね》で動かされないものは他には無いからね、そんな時にはいつも婆やを思い出して、骨を折ってもらいたくなるんだ』
『そんな事をして、あなたは面白がっていらっしゃる。わたしを色々な危い所へ連れ込むのが面白いんでしょう、きっと!』
『でもまあ、何事も神様の思召《おぼしめし》でございましょう……仕方がございません。……でわたしは、どんな仕事をするのですか?』
『まず第一に、俺を隠匿《かくま》っておく事だ。この部屋の半分だけ俺に貸しておくれよ。俺は長椅子の上へ寝りゃたくさんだから、それからおれに必要なものを食わせてくれる事だ。それから今一つおれの云う通りに、おれと一緒に捜し物をするんだ』
『何を捜すんですか?』
『前に話した事のある貴重な品だ』
『何んですか、それは?』
『水晶の栓さ』
『水晶の栓!……まあ!妙なものを!もし見付からなかったら……』
 ルパンは静かに彼女の腕を握って、真面目な調子で、
『それが見付からないと大変な事になる。そら知っているだろう、お前も可愛がっていたあのジルベールの首が無くなるんだ、ボーシュレーと一緒に……』
『ボーシュレーなんぞは構いませんよ、どうなったって……あんな悪党は……だが可哀想にジルベールが……』
『乳母《ばあや》は今日の夕刊を見たろう? 事件《こと》がどうも面白くないんだ。ボーシュレーは書記を殺した下手人《げしゅにん》がジルベールだと云い張っている。ところが悪い事には、ボーシュレーの使った短刀はジルベールの持ってたものなんだ。それに今朝も有力な証人が出ている。何《な》にしろジルベールは利口な様でも年が若いだけに度胸が出来ていないから、ちょっとした事実を隠してみたり、曖昧な陳述をしてみたり、あるいはつまらぬ事を云い抜けようとするから、ますます不利になってしまうと、こう云う訳なんだから、乳母《ばあや》も一ツ大いに力になってくれ』…………

 その夜、深更になって代議士が帰って来た。
 以来数日間、ルパンはドーブレクと、生活を共にする様になった。彼がちょっとでも外出するとルパンは早速秘密捜索を行った。ルパンは彼一流の調査方法を講じた。すなわち各部屋を幾つにも区劃《くかく》し、その一ツずつについて細心な注意と整然たる順序をもって研究するのだ。のみならず、代議士の一挙手一投足から、その無意識にする動作に、表情に、あるいはまた彼の読む書籍、彼の書く手紙、あらゆるものは一ツ残らず敏感なルパンの目をもって監視した。
 ドーブレクの生活は極端に開放的であった。扉《ドア》という扉《ドア》は閉じてあった事が無い。訪問客は一人もない。その生活ははなはだしく単調で機械的になっていた。彼は午後に議会へ行き、夜は倶楽部《くらぶ》へ行く。
『いやいやこう見えても必ずその裡面《りめん》に何等かの清浄ならざるものがあるに相違ない』とルパンが云った。
『何もありやしませんよ。いつまで見ていたって無駄ですわ。間誤々々《まごまご》していると私たちが縛られてしまいますよ』とビクトワールが反対する。
 [#「 」は底本では「『」]実は刑事連中が邸《やしき》の前を毎日の様にブラブラしているのを見て少なからず気に病んでいるのである。ビクトワールは刑事連中の方ですでに自分等のことを嗅ぎ出して張り込んでいるんだと独《ひと》り極《ぎ》めに思い込んでしまっていた。市場《しじょう》へ買物に出るたびに、今にも御用だと云って肩を掴まれやしないかとヒヤヒヤしていた。
 ある日、彼女は青くなって息せき切て駈け込んで来た。腕にかけている籠までガタガタふるえている。
『乳母《ばあや》は、どうしたんだい? 真蒼《まっさお》じゃないか』
『真蒼……でしょう?……ホントに吃驚《びっくり》しました……』
 ビクトワールはベタリと椅子に腰をかけて、しばらくドキ付く心臓を静めていたが、ようやく吃《ども》りながら、
『知らない男が……知らない男が突然わたしの傍《そば》へ来て……八百屋の店で……手紙を渡されたんですの……』
『ハハハハハ。それくらいのことで何も驚くことはないじゃないか……附《つ》け文《ぶみ》だな、きっと』
『いいえ……「これを首領《かしら》の所へ持って行け」と云うんでしょう。「首領《かしら》ですって」と聞き返すと「そうよ。お前の室《へや》に逗留している紳士にさ」と云うんです』
『フーム!』ルパンはブルッとした。
『ドレお見せ』と云ってその手紙を受け取った。手紙の封筒は白紙で何も書いていない。が封を切ると二重封筒になっていて、それには、
[#3字下げ]ビクトワール方 アルセーヌ・ルパン殿
 と書いてあった。
『ウム。怪しいぞ』と呟《つぶや》きつつ彼《か》れは第二の封筒の封を切った。中には一枚の紙片《かみきれ》に楷書で筆太に、
[#3字下げ]「貴下のなしつつあるすべては皆無益にしてかつ危険なり……速《すみやか》に断念せられよ」
 ビクトワ
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