びん》があったのを見て、一々その栓を引き抜いて調べた。
『しめしめ。いよいよきゃつも硝子の栓へやって来たわい! すると書類なんぞじゃあないかな? どうも解らなくなったぞこりゃあ……』とルパンは考えておる。
 一時間半余りもプラスビイユは熱心にあらゆるものに手を付けて捜し廻ったが、一度手を触れた品物は元の通りの位置に置く事に注意していた。九時頃にドーブレクに尾行した二人の刑事が帰って来た。
『今帰って来ます!』
『徒歩か?』
『そうです』
『じゃ十分時間はあるな?』
『ございます』
 プラスビイユと部下の刑事等は別段急いだ様子もなく、最後に室内をズッと見渡して、何等|気取《けど》られる様な痕跡のない事を確めた上悠々と引き上げた。ルパンの位置が困難になって来た。今出かけてはドーブレクに衝突《ぶつ》かるので家から出る訳に行かない。仕方がない。虎穴に入らずんば虎児を得ずだ。今少しここで見ていてやろう――ルパンはそう思って食堂のカアテンの影に身を潜めて、じっと書斎の方を凝視《みつ》めていた。
 まもなくドーブレクが入って来た。頭はほとんど禿げていた。眼が悪いのか普通の眼鏡の上に黒眼鏡を二重にかけている。顎骨の角張って突出しておる所はいかにも精力絶倫らしい相貌で、手はすこぶる大きく、両脚は曲り歩くたびに脊《せ》を曲げて妙に腰を振る形態《かっこう》はちょうどゴリラの歩き振りを思わせる。とにかく獰猛な顔、頑丈な体格、相当蛮力を有《も》った男に違いない。彼は机の前に腰をかけて、懐中《ポケット》からパイプを取り出し机上にあったマリーランド煙草の箱の封を切ってそれを詰めて燻《ふ》かしながら、何やら手紙を書き初めた。
 しばらくすると彼は何を思ったかふと書く手を止めて机の一点を凝視しながらじっと思案にふけっていた。と見る、ズイと手を延ばして机上の切手入の小箱を取り上げて調べていたが、続いてプラスビイユが手を触れた品物に目をそそぎ、一々覗き込んでは、手に取ってみて小首を傾《かし》げていたが、彼自身のみに解る何等かの証跡を発見したらしく下女を呼ぶ電気|釦《ぼたん》を押した。まもなく門番の女中が入って来た。
『やって来たろう、え?』
 女中が狼狽《どきまぎ》しておると、
『オイ、クレマンス。この切手箱に手を触れたのはお前じゃあるまいね?』
『いいえ、どう致しまして』
『そうか。俺はね、この箱へ細い護謨《ごむ》を巻き付けておいたのだ。その護謨紐が切れておる』
『だって、旦那様、私は……実はあの……』
『実はあの両方へ好い子になりたいのだろう……よしよし』
 と云いながら彼は五十|法《フラン》の紙幣《さつ》を握らせた。
『やって来たろう?』
『ハイ』
『春来た連中と同じか?』
『ハイ。皆で五人……それにも一人の方と……皆さんを指図なさる……』
『丈《せい》の大きい?……茶褐色《ちゃかついろ》の毛の?……』
『ハイ』
『それだけか?』
『もう一人後から入って来て皆と一緒になりました……それから、ええ、もう二人参りました。いつも邸の前で見張をしておる方々です』
『皆んなこの書斎に居たか?』
『ハイ』
『で、俺が帰ると云うので出かけたんだな?』
『ハイ』
『よろしい』
 女中は引き退《さが》った。ドーブレクは再び書きかけの手紙を書いた。それから手を延ばして、彼は机の一端にあるメモの用紙へ何か書いて、すぐ眼に付く様にそれを机上に立てかけた。これは一聯の数字で、ルパンが覗いてみると、
[#4字下げ]9 − 8 = 1
 ドーブレクは何か思案する様な様子で口の中《うち》で呟いていたが、
『実に名算じゃ』と高声に云った。そしてなお一通の単簡な手紙を書き、それを状袋に入れた。ルパンは代議士が最前の引算の紙の傍へ手紙を立てかけたので、再び覗いてみると、
『警視総監プライスビイユ殿』としてある。
 ドーブレクは再び女中を呼んだ。
『オイ。クレマンス。お前は子供の時に学校へ行って算術を習ったか?』
『まあ、旦那様……』
『と云うのは、お前は、引算に不得手と見えるからじゃ』
『なぜでございますか?』
『お前は九から八引く一残ると云う事を知らぬからじゃ。え、それが肝心の事だぞ。この定理を知らないと生きて行かれないぞ』
 といいながら、彼は立ち上り、両手を脊《せ》に廻して例のゴリラの様な歩き態《ぶり》をしつつ室内をドシリドシリと濶歩していたが、やがて食堂の前へ来てその扉《ドア》を開いた。
『問題は他《た》にあらず、解くべきはただここのみじゃ。九から八引く一残る。残りの一はおおかたここだろう。そら、え? やっぱり算法は争われぬものじゃね? 証明はかくの通り明かじゃて』
 彼はルパンが急いで隠れた窓掛《カーテン》のひだの所を軽く叩きながら、
『貴公、こんな所に居ると息がつまるよ。わしがここからズブリ一突きやったら、それまでじゃ……ね、飛んだハムレットとポロニャスの死が出来上がってしまう……ハムレットの文句じゃあないが「鼠じゃよ、しかも、大きな鼠じゃよ……」これ、ボロニャス殿、いやさ鼠殿、まあその穴から出て来さっしゃい』
 ルパンは今までにこんな忌々しい屈辱な目にあった事が無かった。まるで袋の鼠同様の憂目、這々《ほうぼう》の体たらくである。しかもこれに対してどうする事が出来ようか。
『顔色が少し青い様じゃ、ポロニャス殿、……オヤ、貴公はこの間中から邸の前を迂路付き廻った御隠居さんじゃな! や、ポロニャス殿、貴公はやはり警視庁の御役人じゃろう? まあまあ、落付くがよろしい。別に何ともしないよ……どうだ、クレマンス、俺の算術は確なものだろう。お前の話に依ると、ここへ入って来たものは九人だと云う。ところで俺が帰りしなに、街の遠くの方から勘定した時には連中は八人だった。九から八引く一残る。その御一方《おひとかた》はここに残って、後の様子を覗《うかが》っておるに違いなかろう。すなわち依而如件《よってくだんのごとし》さ』
『なるほど、それから?』と云ったルパンはこの男に飛びかかって一撃の下に叩きのめし、グーの音も云わせぬ様にしたくてウズウズして来た。
『それから? それだけさ何もありはしないよ。隠居はこれで大切さ。さあ、今書いたこの手紙を貴公等の親方、プラスビイユ君の所へ持《もっ》て行くんだ。オイ、クレマンスや、ポロニャス殿を玄関まで御送り申上げろ。今後、この方がいらっしゃった時には、遠慮なく門を開けて、御勝手に御入りなさいと申上げろ、ポロニャス殿、さらばでござる……』
 ルパンはちょっと躊躇した。こうなって来ると、何んとか見得を切らなければ花道の引込《ひっこみ》が付かない。しかしこの場の敗北は散々の体為《ていたらく》、いかんとも為様《しよう》がないので、黙って引込むにしかずと考えた。そして帽子を引掴んで頭に叩き載せ、足音も荒々敷く女中に送られて玄関を出た。
『駑畜生《どちくしょう》ッ』と門を出るや否や、ドーブレクの窓に向って叫んだ。『糞野郎! 悪党! 代議士! 貴様はよくも俺をこんな目に会わしやあがったな! ……ウヌッ、見ろ、貴様……覚えてやがれ、畜生ッ……よろしッ、野郎、この返報はきっと思い知らしてくれるから……』
 彼の怒りは心頭に発した。しかしその心中に燃ゆる憤怒の影から彼は新しい敵手《あいて》の力量を知った。そしてこれがこの事件の大立物たる事を否定する事は出来なかった。
 ドーブレクの糞度胸、警視庁の猛者を向うに廻して平然たる自信力、勝手に家宅捜索をさせて嘲笑しておる不敵さのみならず、自己を覗《ねら》う九人目の男がある事を知りつつ、その悠然落ち付き払っておる剛胆、傲岸、沈着、普通人の出来ない芸当で、すべてこれ歴々たる勝算あるもののごとき態度は、強力《ごうりき》、不屈、剛気、闊達、大胆不敵、普一通《なみひととお》りの人間ではない事を証明しておる。
 しかしその勝算とは何か? いかなる秘策を把持しておるか? 誰れが秘密の鍵を握っておるのか? いかなる次第で敵味方に分れたか? ルパンは全然何等知っていない。彼は相手の陣立も、武器も、勢力も、秘略も、何も知らずに、ただ盲目滅法《めくらめっぽう》、無茶苦茶に双方の間に飛び込んでしまった形になっておる。しかしただ双方必死の努力の焦点となっておるのは一個の水晶の栓である事だけは知っておる! ここに一ツ面白いのは、ドーブレクが彼の仮面を看破し得なかったことだ。ドーブレクは彼を刑事と思った。ドーブレクにしろ、警視庁にしろ、この事件の中《うち》へ第三の怪物が飛び込んで来た事を未だに知らないでおる。それだけが彼の身上《しんしょう》だ。彼が最も重要視しておる行動の自由を得しむる唯一の身上である。
 彼は何の遠慮もなく、最前ドーブレクが警視総監プラスビイユ宛に届けろと渡した手紙の封を切った。中にはこんな手紙が這入っていた。
[#ここから1字下げ]
「プラスビイユ君、君の手の届く処にあった。君はそれに手を触れた! 今一息、それでよかったんだ……が君は発見すべく余りに愚《おろか》だ。我輩をして一敗地にまみれしむべく、君以上の発見をし得るものはまずない。あわれフランス! 
 プラスビイユ、さようなら、しかし、今後もし現場《げんじょう》で君を捕まえたらば、御気の毒ながら、捻り潰すよ。
    プラスビイユ君。[#地から7字上げ]ドーブレク拝」
[#ここで字下げ終わり]
「手の届く処……」と読み終えたルパンが呟いた。『あのくらいな悪党になると思い切って真実の事をズバズバ云うものだ。最も簡単なる隠し場所は最も安全なりと云うからな。ともかくにだ……ともかくにと……取調べる必要があるぞ。なぜドーブレクがあの様に厳重に監視されておるか、一ツ大いに取調べる必要があるぞ』
 ルパンが、早速秘密探偵局について取調べさせた処によると、
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「アレキシス・ドーブレク[#「ドーブレク」は底本では「トーブレク」]。一昨々年ブーシュ・ドュ・ローヌ県選出代議士、無所属、政見は明瞭ならざるも、常に巨額の金員を散じて選挙民の好感を買い、地盤すこぶる強固なり。別に財産無し。しかれども巴里《パリー》本邸の外《ほか》アンジアン及びニイスに別荘を有し、はなはだ贅沢なる生活を為せるも、その財源をいずこに求むるや不明。元来政界に特殊関係、または党派的勢力なきにもかかわらず、政府に対して絶大の勢力を有し、その要求の貫徹せざるものなし」
[#ここで字下げ終わり]
『こりゃ職業調査だ』とルパンは報告書を読み返しながら云った。『俺の要求するのは素行調査だ。秘密調査だ。本人の内的生活に関する報告だ。これがあれば暗中模索の俺の活動もまた非常に楽になるし、ドーブレク[#「ドーブレク」は底本では「ドーブレグ」]に関係合《かかわりあ》って無駄骨を折るか折らぬかの見当がつくんだ!……フーム、こうしておる内にも時は経つ……』
 当時ルパンが平素の住宅としていたのは、凱旋門の傍のシャートーブリヤン街であった。そこにミシェル・ボーモンという変名で家を借りていた。住心地のいい家《うち》で、アシルと云う腹心の部下と二人|限《き》り、この下男代りの部下がルパンに対して各方面から来る電話を細大もらさず主人に通じる役を引受けていた。
 この家に帰ったルパンは女工風の女が一時間も前から尋ねて来て待っておると聞いて尠《すくな》からず驚いた。
『何んだって? だって今までに一人だって尋ねて来たものが無かったじゃないか? 若い女か?』
『いいえ、帽子も冠《かむ》らず、頭からショールを被っていますから、顔はよく解りませんが……』
『誰れに会いたいてんだ?』
『ミシェル・ボーモンさんにと云いました』と下男が答えた。
『可怪《おかし》いなあ。して用件は?』
『アンジアンの事件とだけしか云いません……ですから私は……』
『うむ! アンジアン事件! じゃあ女は俺がその事件に関係しておる事を知っておるんだな!……会おう!』
 ルパンはズカズカと客間に行って、その扉《ドア》を開けた。
『オイ、何を云ってるんだ。誰も居ないじゃないか』
『居ませ
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