る目を開いた。と意外、意外。ドーブレクは極度の恐怖に襲われたものの如く、その眼は二重瞼の底から異様の光を見せて夫人の肩の辺を凝視している様だ。
 クラリスは振り返った。と可驚《おどろくべし》、ヌッと現れた拳銃《ピストル》二挺。……自分の椅子の背後から、黒い口を開いてドーブレクの腹の辺をピタリと狙っている。ドーブレクの恐怖の顔色は次第に蒼ざめて来た。と見る椅子の影から一人の壮漢が飛鳥の如く躍り出すや否や、片手を代議士の頸にかけて、ガタリと床の上に叩き付けると同時に、綿のようなものをその顔に押し当てた。とプンとクロロホルムの臭気が室内に漂う。クラリスはニコル氏の姿を認めた。
『オイ、グロニャール!オイ、ルバリュー!拳銃を離せ、どうやら脆くも参ったらしい……さあ縛り上げろ!』
 さすがの猛悪野獣の如きドーブレクも頽然《ぐたり》と横わっている。グロニャールとルバリュとはたちまち毛布でグルグル巻きにして、その上を細縄で雁字搦《がんじがらめ》に縛り上げてしまった。
『占め占め、占め子の兎だ……』とルパンは驚喜して雀躍した。彼は盛《さかん》に躍り上りながらドーブレクのパイプを口に啣《くわ》えて、
『オイ、大将、貴様の煙草はどこだ、マリーランドは?……アッ、あったあった』と黄色の函を取りあげて、その封緘を切った。そして人差指と親指とで物をつまみ出す様に静かに器用に徐々と函の中をかき廻してスッと抜き出した指先にキラリと光るものがあった。クラリスはアッと叫んだ。これこそ真の水晶の栓!
『これです!これです!御覧下さい、尖端に疵もなく、中央に金線の飾りがあって、ここが捩子になっていますけれども……ああもう私《わたくし》は力が抜けてしまって……』
 ルパンが代って水晶の栓を開いた。と中から果して豆粒ほどの紙球が現れた。まさしく二十七名の連判状! 精巧を極めた薄葉用紙にランジュルー、デショーモン、ボラングラード、アルブュフェクス、レイバッハ、ビクトリアン・メルジイ等政界の巨頭当路の大官の名を列ね、その下に両海運河会社長の署名があって、生々しい血色の判が捺してあった。
 彼はかねて用意してあったものの如くそれぞれ部下に命じて巴里《パリー》へ出発の準備をさせた。そしてルバリュを運転手に変装させて大きなトランクを持ち込み、それに魔酔せるドーブレクの身体を詰め込んで、頭には枕を当てがい、厳重に蓋をした。
『結構々々。これなら世界の果まで送っても大丈夫だ、ハッハハハ』とルパンは笑った。

[#8字下げ][#中見出し]※[#始め二重括弧、1−2−54]七※[#終わり二重括弧、1−2−55]人道のために[#中見出し終わり]

 かくてトランク入のドーブレクは部下二人の手で自動車に乗せて巴里《パリー》へ運搬した。ルパンはクラリスの名でプラスビイユ宛に、
[#3字下げ]「尋ネ人発見セリ。明朝十一時例ノ文書ヲ渡ス」。
 と至急電報を発しておいて直ちに急行で巴里へ向け出発した。ルパンは夢中になるくらい喜んでいた。彼が果しなき旅を続けていたにもかかわらず、突如ここに姿を現わしたのは、
『奇蹟ですね。サン・レモからゼノアに向け出発しようとした時、ふと、妙な気がし出して、汽車を飛び降りようとしたのでしたが、二人に止められたのです。で汽車の窓から首を出して何心なく過ぎ行くプラットフォームを見ると、伝言をしに来た駅夫の奴、両手をこすって、意味ありげな笑を洩している。ジッと見ているとハッと気が付いた。偽駅夫! 失敗《しま》ったドーブレクにやられていたと思うと今までの径路が万事了解したのです。解ったと思ったが遅い。で次の駅で幸にも引返しの列車があったのでそれで例の偽駅夫を尾行してここへ来たのでした』と、説明した。
 巴里《パリー》に着いたのが日曜日の午後八時。ルバリュの方からは「荷物破損なし」との電報。プラスビイユからは「月曜午前は帰れぬ、午後役所へ来い」と云う返電がとどいていた。
 その日の新聞には二人の死刑執行明日午前中に行われると報じてあった。午後、警視庁でプラスビイユに面会したクラリスは、連判状引渡しの交換条件としてジルベール及びボーシュレーの助命を切り出した。プラスビイユはアッと驚いた。
 明日と確定した囚人の死刑執行猶予……大問題である、彼は余儀なく大統領に謁見を申込んで、真の連判状が手に入れば二人の生命は許してもいいとの内諾を得た。そして改めて二人の前へ帰って来てメルジイ夫人に訊いた。
『で全体、水晶の栓はどこにありました?』
『あの、マリーランドと云う煙草の函の中です』
『エッ、あの箱の中? 実に残念じゃ。あの函は私が何度手を触れたかしれないでしたになあ……で連判状を持っていらっしゃいますか』
『ええ、持参しています』
 プラスビイユは連判状を手にして、
『やあ、まさしくこれですなあ!』
 と見ていたが、やがて拡大鏡を出して、窓硝子へ透かして熱心に調査をした結果、
『クラリスさん、これは御返しします。……偽物です……』
『エッ、偽物? え、そんな……』
『ええ、棄てるとも焼き棄てるとも勝手になさい……実は連判状の用紙ですが、肉眼では見えませんが、透かして見ると紙の中に十字のマークが打ってあるのです。ところがこれにはそれが無いのです……』
 聞いたメルジイ夫人の顔色はみるみる物凄く蒼ざめて来た。驚いたのはルパンのニコルである。のみならず狂乱に近くなった彼女は取り止めのない言葉を口走ると共に肌身離さぬ短剣をスラリと引き抜いて我れと我が咽喉《のど》に擬した。
『アッ、危い! 何をするッ!』とニコルは電光の如く短剣を奪った。
『あなたはジルベールをきっと救うと誓った私の言葉をお忘れですか?……ジルベールのために生きなさい。私が附いている以上きっとジルベールの死刑は執行させません……きっとです、きっとジルベールは殺さしませんッ』そう云って彼はブラスビイユに向い、
『では、閣下、真の連判状さえ手に入ればきっと二人の生命は赦[#「赦」は底本では「赧」]してくれますね。じゃ、暫時御待ちを願たい。二十七人連判状については、一時間、いや二時間以内に私が再びここへ参りまして、御相談致しましょう』と命令的に云った。そして夫人の手を取って引摺る様にしてほとんど駈足でフイと室外へ去ってしまった。ブラスビイユはしばらく唖然として呆気にとられていた。ニコルと云う家庭教師、下らぬ男とばかり思っていたが、今日計らずもその仮面を脱ぎかけた処からサッするに、明察果断しかも気鋒俊英の大才物だ。なかなか普通の人間では無さそうだ。はて何者だろうか……プラスビイユはブルッと戦慄した。きゃつだ!
 彼は廊下へ飛び出すと、刑事課長に会った。
『君、今女連れの男を見たろう? すぐ五六名を連れて追駈けてくれ。それからニコルと云う奴の家を監視して、すぐ捕縛しろ、これが逮捕状だ……』
『でも……おや、捕縛するのはニコルでしょう? ですが、これにはアルセーヌ・ルパン……』
『アルセーヌ・ルパンもニコルも同一人間だ……』
 翌日、ニコルは再び飄然とプラスビイユを訪れた。
『実にどうも大胆不敵、図々敷い野郎だ』とプラスビイユは呟いた。
 ニコル文学士は不相変《あいかわらず》例の洋傘《こうもり》や汚い古帽子や手袋などを抱えて応接室に待っていた。
『ええ、昨日御約束致しました件について御伺い致しました。思いがけなく手間取りまして、何とも申訳がございません』
『いかがです、昨日のお言葉通り真物《ほんもの》が手に入りましたか?』
『ハア、実はドーブレクは巴里《パリー》に居りませんでして、自動車で巴里《パリー》へ参る途中でございました』
『君は自動車を持っているかね?』
『ええ、旧式のボロボロ自動車でございます。でドーブレクを自動車に乗せまして、と申しても実は、旅行鞄《トランク》の中へ押入れまして、自動車の屋根の上へ乗せて、巴里《パリー》へ参る途中でした。が、つい機械に故障がございましたために手間取った様な次第でございます』
 プラスビイユは驚愕の顔でニコルを眺めた。人相を見ただけではどうしてもそれとは想像も付かないが、その談り出した行動、ドーブレク誘拐手段は――咄《とつ》!怪物!人間をトランクに詰めて、しかも自動車の屋根で運搬するなどと云う離れ業は、ルパンならでは出来ない事だ。しかもそれを他人の前で平然として事もなげに云ってのける者もまた、ルパンならではできない。さては奴、いよいよただの鼠じゃない。
『ところで連判状は手に入りましたか』とプラスビイユはさり気ない体で問うた。
『持っています』
『真物ですか?』
『無論、正真正銘、擬い無しの連判状です』
『ローレンの十字のマークがありますかね?』
『あります』
 プラスビイユは沈黙した。激烈な感情が総身に迫って来た。今や闘争はこの相手、非常の力を持ったこの怪物を相手に起って来たのだ。しかも当の敵たるアルセーヌ・ルパン、かの猛峻な怖るべき怪盗アルセーヌ・ルパンが面と向かって、十二分に武装したものが寸鉄を帯びざる敵と相対せるものの如く冷然としてその目的に突進しつつ平静、端然と落ち付き払っているのを思って、プラスビイユは知らず知らず身慄をした。正面から堂々と攻撃するは危険だ。彼はジワジワと攻め立てようと考えた。
『でドーブレクが温順《おとな》しくそれを渡したかね?』
『ドーブレクは渡しません。私が引奪くったのです』
『じゃ、腕力を用いたのだろう?』
『なあに、そんな事は致しません』とニコルは笑いながら云った。『ええ、私は堅い決心を致しました。ドーブレク先生が私のボロ自動車のトランクの中に乗かって、最大速力で走りながら、時々クロロホルムの御馳走を召上っている間に、私は一気呵成に目的物を得る方法を考えました。いいえ、拷問なんぞの必要もありません……余計な苦痛を与えるのも罪ですから……一思いに殺すんです……極めて細い針を、その胸、心臓の辺りに徐々と突き込むんです……たったそれだけです……ですがそれはメルジイ夫人に御願したのです……愛児を殺されんとする母の心……情容赦は致しません。「云え、ドーブレク、云え連判状の所在を云え……云わなければ針を段々深く突込むよ」と云った訳で、一ミリばかり突込み……また一ミリ……ところが強情我慢のドーブレクですな、一言も云いません。驚きましたよ。ですが、次第に苦しくなったと見えて、少しく唇を動かしました、その時、夫人が「眼……眼……眼鏡の中に……眼を見ましょう……」と云うので、もちろん私も、その苦痛の眼からきゃつの秘密を読んでやろうと思っていた矢先ですから、いきなり黒眼鏡を引ぱずしてやったんです、と突然、何とも云えない感じに打たれ、ハッと思うと一切の光明がサッと出ましたね。で噴飯しましたよ、大笑いでさあ……いきなり拇指をグイと突込んで、ポンと刳り出しましたよ、左の眼球《めだま》を! アッハッハハハ』
 ニコル氏は凄い声で呵々と大笑した。彼はいつの間にか臆病な、窮屈な田舎出の家庭教師の仮面をかなぐり棄てて、濶達奔放、縦横無碍の調子で喋舌り立てる様になった。プラスビイユは面喰って目ばかりパチクリパチクリさしている。
『ポンと飛び出しやがったぜ、大将! 巣からはね出したんでさあ。ヤイ、親方、二ツの眼球を何にするんだ! 贅沢だ。ソレ、クラリスさん。床の上へころがりましたよ。踏み潰しちゃいけない……ドーブレクの眼球です! 踏み潰しちゃいけませんよってね。ハッハハハ』と笑いながら彼は懐中から一物を取り出して掌でころがし、二三度手毬に取って、また元の懐中へ入れた。
『ドーブレクの左の眼球です』
 プラスビイユは茫然としてしまった。この奇怪な訪問客は何しに来たのか? 全体何を云っているのか? 彼の顔は真蒼になった。
『何の事か解らない』
『解らんとは驚いた。一切説明したじゃありませんか。例の「外部より容易に看破せられざる様巧妙なる細工を施されたし」と云ったのはこれなんでさあ』と云い、またも例の眼球を取り出して、卓上をコンコンと叩いた。堅い音がする。
『硝子の眼球だ』とプラスビイユ
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