付いた。まだ一人ある』
『ジルベールか?』
『貴様に頼むが、ジルベールの救助に一骨折ってくれ』
『馬鹿。ヘン御断りよ』と云った代議士の相貌にはみるみる野獣の本性を現して来た。『ヘン。御断りだ。俺は二十年来、今日ある事だけを待つために生きて来たんだ。メルジイ自身で来て俺の前で嘆願すりゃ、そりゃ次第によっては聴いてもやろうさ。だが貴様だけじゃ、御断りだ』
『どうしても聴かなきゃ、聴かないでいいさ。ヤイ、ドーブレク。俺の云う事を、よっく覚えていろッ。いずれ俺はある方法で、貴様に致命傷を与えてやる。その時に泣顔を掻くな。……何ッ。例の連判状を貰いに来るからその積りで用心しろ』
『フフン。奪るとな、笑わせやがる。アッハハハ』
『[#「『」は底本では「 」]勝手にしやがれ。だが、俺が思い立ったら最後成就せずにゃおかねえから。ヤイ。俺を誰れだと思う。アルセーヌ・ルパンだぞ』
『俺はドーブレクだ。フン。勝手にしやがれさ、……だが、いよいよジルベールの死刑が確定すりゃあ、いやでも俺の袖に縋るより外はないのだ。メルジイは誰が何と云っても俺の妻さ。アレキシス・ドーブレク夫人となるのさ。いずれ結婚披露には貴様も招待してやるから、楽しんでいるがいい。ハハハハ、だが、もうこうなった以上は、オイ、ルパン、トット出て行ってもらおうよ』
 ルパンは無言のまま、物凄い眼光を据えて相手を見詰めた。ドーブレクも思わず身構えをした。両雄の虎視まさに眈々、ハッと思う刹那ルパンの手は懐中へ入る。と同時にドーブレクも懐中のピストルを握る。二秒三秒……冷然としてルパンは手を突き出した。掌上には小さな金紙を貼った小函一箇。開いたままドーブレクに差し出した。
『飴菓子《ドロプ》よ?』
『な、何んにするんだい?』とドーブレクは面喰った。
『ビクビクするない。ジェローデルのドロップだよ』
『何んにするんだ?』
『だいぶ熱があるから風薬に嘗めるんさ』
 意表の悪戯に、代議士が度肝を抜かれて周章《ふた》めいている隙に、ルパンは素早く帽子を鷲攫みにしてプイと室外へ抜けた。
『今の趣向は我ながら。秀逸々々』と彼は玄関を通りながら笑った。『面喰った醜態《ざま》ったらないね。毒薬と思いきや、ドロップを出されたんで、山猿め、すっかり毒気を抜かれやがった。ハッハハハ』
 門を出るとちょうど一台の自動車が邸内に走り込んだ。ブラスビイユを先頭にドヤドヤと降りる警官の一隊。
 ルパンの姿は闇に消えた。

 ジャック少年を取り戻したルパンは巴里《パリー》の附近危しと考えたので、夫人をブルターニュー海岸へ移転静養せしめ、彼は巴里《パリー》郊外に新しい隠家を求めた。
 まもなく彼はドーブレク代議士の出身地から地方政客として名のある男を呼び寄せ、その男の手からドーブレクをある料理屋に誘き寄せ、そこで大仕掛に兇漢誘拐を計画した。
 がしかし、当日、ドーブレクは自分の書斎において、四人連れの男のため、拳銃《けんじゅう》を放つほどの大挌闘を演じた末、時もあろうに白昼どこともなく引攫われてしまった。
 ルパンの計画はまたまた瓦解した。
 肝心の目的物が魔の手に攫われたのにはさすが蓋世の怪盗も唖然として驚いた。しかし第三の計画を樹立する前に彼はまずドーブレクの行方を突き止めなければならず、またその生死を明らかにしなければならなかった。
 その日の夕方プラスビイユがドーブレクの宅で独り居残って綿密な捜査をしている処へメルジイが尋ねて来た。
 プラスビイユの前に現われたのはクラリス・メルジイのみならず、その背後《うしろ》には古ぼけた七ツ下りのフロックを着けた紳士が恐々《おずおず》と随いて来た。彼は古い山高帽やダブダブの雨傘や汚い手袋などを両手に持って極り悪るげにモジモジしていた。
『この方は文学士のニコルさんで、ジャックの家庭教師を御願してございますが、私どもとはごく親しい間柄で、私も何によらず御相談を願っている方でございます。私どもの計画していました事もすっかり無駄となりまして、落胆致しました。ドーブレクの行方につきまして何か手懸りでもございましたでしょうか?』
『いや、弱りましたよ。何一ツ証拠にする様な物もなし、まるで風の様にサッと来てアレアレと云う間に攫ってしまったのですからなあ……』
 プラスビイユもよほど閉口しているらしかった。
『で、残り物と云えば出口の鋪石《しきいし》の上に賊どもが取り落して破したものらしいこんな象牙の破片が落ちていました。……どうです、ニコルさんとやら何とか見当が付きますかね?』
 彼は嘲笑的口調で、暗に意見を促した。ニコル教師は椅子から動こうともせず、伏目がちになって、頻りに帽子の縁を撫で廻して、その遣場に困っているらしい。
『閣下、いかがでしょう。この象牙の破片が何とか物になりませんでしょうかなあ。』
『フフン。これですか。どうも仕方が無いでしょうなあ、こんな物は……』
 ニコル氏はフト思い出した様に、
『閣下、ナポレオン一世の在位の頃に地位名望を得てその没後振わなくなった、ある貴族の子孫に当るものはございませんでしょうか。――ナポレオン党の領袖でしたでしょうが……これはその人のではなかろうかと存じます。と申しますのはこの破片にはどうやらナポレオンの半面像がありますからなあ……と申上げれば名前を申上げずとも御解りでしょうが……』
『アルブュフェクス侯爵……』とプラスビイユが呟いた。
『そうです、アルブュフェクス侯爵です……』
 彼――ニコルは官房主事に向い至急にアルブュフェクス侯爵に関する詳細な調査を依頼すると同時に、彼自身侯爵の行動を一々探偵した。
 苦心に苦心を重ね、十数日を費やした結果、――ニコルすなわちルパンは侯爵がたびたびアミアンとモントピエールの間に量に出掛ける事を知った。そう云えばその附近にかつては侯爵の居城で、今は廃墟となっている通称モンモールの古城と云うのがあった。彼はこれに目を付けた。
『ドーブレクの幽閉されているのはそこだ』とルパンは叫んだ。
 古城の麓を廻る急流。しかも両岸は突兀《とっこつ》たる大懸崖。城の入口には鉄の桟橋がかかって、一夫関を守れば万夫を越えがたき要害険阻の古城である。森林と千丈の断崖と矢の如き渓流とに抱かれた深秘の古城を仰ぎ見てさすがのルパンも吐息を吐いた。
 彼は古城に忍び込むべき附近の地理を案じたが、それは徒労に帰した。しかし彼は附近の人の口から伝説を聞いた。その昔、恋に狂う美しい姫をこの古城に幽閉した時、同じ恋の若者が、急流の岸壁より梯子を渡し一条の縄を頼りに千丈の断崖を攀じて遂に姫を救出したが、あわれ恋の二人は断崖に足を辷らして急流に陥ち、ついに果敢ない最期を遂げた以来、村人はこの古城の塔を「恋の塔」と呼んでいると。
『占めたッ』とルパンは膝を打った。『よしッ、一か八か、俺もドーブレクの恋の相手に、あの断崖を登ってやろう』
 その夜、グロニャールやルバリュが諫止するのも肯かず、五丈の梯子と二十丈の縄を命に、九死の大冒険をあえてして、古城へ忍び込んだ。果然ドーブレクは古塔の一室に惨い拷問の憂き目を見ていた。傍に立つのはアルブュフェクス侯爵にその部下二名。棍棒を振って、ドーブレクに連判状の所在を詰問していた。しかしドーブレクは死に※[#「てへん+宛」、第3水準1−84−80]《もが》きつつ苦しい息の下から『マリー……マリー……』と云う細い声を漏すばかり。でもルパンは遂にその夜深更に至ってドーブレクを救出すことに成功した。
 しかし彼がドーブレクを抱える様にして断崖の上に出で、まさに二十丈の縄にすがって降りようとした刹那、突如ルパンは肩に激痛を覚え、頭がグラグラとした思うとそのまま岩の上に打倒れた。
『アッ、畜生ッ!』
『大馬鹿野郎の頓馬野郎。天晴ルパンの細工がこれか』とドーブレクはセセラ笑った。その片手には短剣が光っていた。『やい俺はな、貴様達の様な浅薄な連中の手に負える悪党じゃねえんだ。……おいルパン。このピストルは俺が貰って行く。じゃ一足お先きへ、さようなら……』
 代議士は悠々と降りて行く。ルパンは満身の力を絞って叫ぼうとしたが声が出ない。
『クラリス……クラリス……ジルベール……』と云うも口の中。そのまま意識は朦朧となって行く。……しばらくすると下の方で卒然起る人の叫び。銃の音。ルパンは鮮血に塗れて断岩《だんがい》の中腹に横たわりつつ、ただ死を待つのみであった……。
 彼が意識を回復した時には、彼はアミアンのあるホテルの一室に横わっていた。

『いや全く驚きましたよ。首領の仆れていたなあ急勾配の大岩石の突端で、一ツ転がりゃあ粉微塵ですからね。今考えてもゾッとしますよ』とルバリュが云っていた。
『ジルベールが死刑の宣告を受けてから今日で十八日……私はホントにどうしたらいいでしょう』とメルジイ夫人は涙声。ルパンは病床にあって、ハッと思うとまたしても意識が朦朧となってしまった。
 ルパンの病中、メルジイ夫人は一ツにはドーブレクの動静を捜り、一ツにはジルベールの様子を聞くために巴里《パリー》へ行った。しかしドーブレクの行方はまだ解らなかった。数日の内にルパンは元気を恢復した。そして部下二名と共に巴里《パリー》へ乗り込んだ。とその日ドーブレクは飄然姿を自分の邸に現わし、アッと思う間にまたしても行方不明になった。まもなくメルジイ夫人から手紙が来て、自分はドーブレクの後を尾行して行くからリオン停車場へ来てくれと云って来た。
 早速ルパンが部下をつれて駈け付けた時は、列車はすでにモントカロへ向って出発した後であった。
 ルパンはすぐに後を追った。しかしモントカロへ着くと、再びメルジイ夫人の手紙が待っていた。
[#3字下げ]「彼はカンヌで下車し、更に伊太利海岸線にてサンレモへ向います。クラリス」
 サンレモへ行くと駅のボーイが来てゼノアに直行した事を伝えた。
『思えば馬鹿気ている。……俺達は一体何をしているんだ……明後月曜日はジルベールの死刑執行日だ……いっそ巴里《パリー》へ帰って別方面で救出す手段を講じようかしら……どうもそれがよかりそうだ……』と思い付くと彼れは動き出した汽車から飛び降りようとして、『危え、首領!』と二人の部下に抱き止められた。かくてルパンは不安の胸を浪立たせつつ、的もなく果しもない汽車の旅を続けた。……

 風光の明媚をもって世界に冠たる仏蘭西の南海岸ニイスの旅館の一室にクラリス・メルジイは不安らしい顔をして旅の疲れを長椅子に横たえていた。この日、ルパンは果しない旅を伊太利方面に向けて出発していた時である。翌朝、彼女は隣室へ忍び込んだ。云わずと知れたドーブレクの室である。室の中には目指す品物は無かったが、捜していると、後方から突然、
『ハハハハ、品物は見付かったかね?』
 ハッと思って振り返れば外出したはずのドーブレクが、皮肉な笑いを邪淫の口辺に洩しながら突立っていた。彼女の身体は谷《きわ》まった。しかもルパンは来ぬ。否行方すら解らない。
 ドーブレクは悠々として驚くクラリスを尻目にかけつつ、彼の計画を語った。彼は反対にクラリスを尾行していたのであった。しかも部下を使ってルパン等に偽手紙と偽口伝をを残さしたのであった。兇悪奸譎な代議士のためにルパンは不知の境に徘徊させられているのだ。あわれ夫人、彼女は孤立無援、しかも恐るべき悪魔の手に陥ってしまったのだ。
 常勝将軍をもって誇る彼アルセーヌ・ルパン今は惨憺たる敗北また敗北、敵のために思うがままに翻弄され尽して、しかもそれを自覚せず、今頃はどこの空に、クラリスの跡を尋ねているのだろうか。
 薄命の夫人が悲惨な運命の最後は来た。不倶戴天の仇敵の前に、今は最後の膝を屈しなければならなかったのだ。ドーブレクは次第に迫って来る。今は絶体絶命! もはや抵抗する力も失せてただ死――観念の眼を閉じた。
『ああ、ジルベール……ジルベール……』と口の中で呟いた。
 と不思議! 迫り来べき敵は一歩も進まなくなった。五秒……十秒……二十秒……ドーブレクは動こうともしない。
 クラリスは恐る恐
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