が驚きの声を挙げた。
『分りましたか、ドーブレクも味をやりまさあね。こんな偽眼を嵌めていようとは神ならぬ身の知るよしもなしです。しかも見本の水晶の栓を血眼になって捜し廻ったり、マリーランドの中から偽物の栓を発見して夢中になって喜んだなざあ、けだし天下の喜劇でした。ドーブレクの奴、こうした偽眼の中へ御神体を祭り込むたあ、考えたも考えたものですなあ!』
『で連判状はその中にあるか?』とプラスビイユはてれ隠しに顔を撫で廻した。
『ええ、たぶんあるでしょうと思います』
『え、何ッ……あるだろう?……』
『まだあらためて見ないのです。実はこれを開く名誉を官房主事閣下のために保留したいのです』
プラスビイユは眼球を手にして点検した。その形状は云うまでもなく、瞳孔、虹彩に至るまで、一見偽眼とは思えないほど精巧に出来ていた。裏面に一ツの栓があって、それを抜くと中は空洞、果然、その中に豆粒大の紙丸《かみだま》があった。手早く拡げて見ると、擬う方もなき二十七名が死の連判状!
『十字のマークが見えますか?』
『あるある。これこそ真物だ』とプラスビイユが叫んだ。
彼は静かにその連判状を懐にすると平然として煙草をくゆあした。彼はニコルなど眼中に無くなったのだ。連判状は手に入った。場所は警視庁、彼の隣室、その他には数十名の警官が伏せてある。ルパンを逮捕するのは嚢中の鼠を捕えるより易い。しかも彼の手には隠し持ったピストルが握られている。ニコルが前約に従ってジルベールの特赦状を要求したが、プラスビイユはフフンと鼻であしらって返事も碌々しなかった。
『おい!ニコル君とやら。私は昨日文学士ニコル君に連判状の交換条件として、ジルベールの特赦を約束した。しかし君はニコルじゃない。フン、まあ云うだけ野暮さ。オイ。いい加減に観念しろ』とせせら笑った。しかしニコルは肩をすくめた。
『ハッハハハ、ねえ、プラスビイユ君。じゃあ俺はアルセーヌ・ルパンとあえて云おう。ところで君はこのアルセーヌ・ルパンと拮抗して戦ってみるつもりなのかい。フン。官房主事閣下、少しは自分の身も考えてみるがいいぜ。連判状を握って急に気が変ったと見えるな、君の態度はドーブレクやアルブュフェクスそっくりだ。「さあ連判状が手に入った。こうなりゃおれは万能だ。ジルベールを殺そうと、クラリスを殺そうと、俺の心のままだ。いわんやルパンの如き、それ何する者ぞ」と考えてるだろう。ところがよ。ドッコイそうは問屋が卸さないんだ。おい! プラスビイユ君、君は、その連判状の第三番目に名前が書いている前代議士スタニスラス・ボラングレーを脅迫して、金を捲き上げた人間があるか、知ってるかい? 全体誰れだと思う? え?』
『…………』プラスビイユは蒼くなった。
『俺の前にいるルイ・プラスビイユさ。君が俺の仮面を引剥くなれば、君の面だって、ずいぶんぐら付いているぜ……』
彼は声高く嘲笑した。そしてプラスビイユとボラングレーとの間に往復した手紙を持っているから、それは今夜いや明朝の四大新聞に素破抜く事になっているんだ。愚図々々云わずと早く大統領の所へ行って一時間以内にジルベールの特赦状を貰って来いと怒鳴った。のみならず彼は特赦状は二十七人連判状だけでたくさんだ、ボラングレーとの文書は四万法渡さねば取引しないと嚇しつけた。
さすがのプラスビイユもこうなっては手も足も出ない。彼は茫然として夢見る心地でフラフラと室から出て行った。
『いや、天晴れ天晴れ』とルパンは、プラスビイユが出て行く後から呟いた。『プラスビイユの奴め、すっかり嚇し上げられやがって出て行ったが、いずれ特赦状と四万法とを持って来るだろう。この袋の中へ詰め込んだただの白紙が四万法だ! まあこれも、ルパン、貴様が人道のために尽した天の報償だよ。……多少思い切った酷い真似もやったさ。だが、こんな奴等は何んでも高圧的にグングン遣付けるに限る! オイ、頭を上げろ。ルパン! 貴様は虐げられた人道のために健気に奮闘した選手だ! 貴様の行動を誇れよ……さあ、今こそ椅子にふん反り返って長々と手足を延ばして、一寝入しろ。貴様は勝った。それだけの資格があるのだ!……』
彼は警視庁官房主事室で独りぐっすりと睡りに落ちた。……
[#地から12字上げ](終)
底本:「「新青年」復刻版 大正10年(第2巻) 合本5」本の友社
2001(平成13)年1月10日復刻版第1刷発行
底本の親本:「新青年 (第二巻第九號)夏季増刊」
1921(大正10)年8月
初出:「新青年 (第二巻第九號)夏季増刊」
1921(大正10)年8月
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「(て)上→あ 不相変→あいかわらず 彼奴・彼女→あいつ 敢て→あえて 貴方・貴女・貴下→あなた・あんた 彼の→あの・かの 有らゆる→あらゆる 或る→ある 或は→あるいは 彼子→あれ 雖も→いえども 如何→いか・いかが 奈何→いかん 突如・突然→いきなり (て)居→い・お 何処→いずこ・どこ (て)頂→いただ 愈々→いよいよ 所謂→いわゆる 況や→いわんや (て)置→お 於ける→おける 己→おれ 拘わらず→かかわらず 斯・斯く→かく 旁→かたがた 勝ち→がち 且つ→かつ 嘗て→かつて 可なり・可成り→かなり 兼ねて→かねて かも知れ→かもしれ 屹と・屹度→きっと 彼奴→きゃつ・きゃつら (て)呉→く 位→くらい 極く→ごく 此処・茲→ここ 御座→ござ 此方達・此輩→こちとら 此方→こっち 悉く→ことごとく 此の→この 之れ・是・是れ→これ 斯んな→こんな 曩に→さきに 流石→さすが 左様→さよう 更に→さらに 如かず→しかず 然→しか 併し→しかし 而して→しかして・そして 暫し・暫時→しばし 屡々→しばしば 暫く→しばらく (て)了・(て)仕舞→しま 直ぐ→すぐ 頗る→すこぶる 宛→ずつ 已に→すでに 即ち→すなわち 総べて→すべて 是非→ぜひ 其処→そこ 密と→そっと 其・其の→その 夫→それ 夫々→それぞれ 度い→たい 大分→だいぶ 沢山→たくさん 丈→だけ 唯だ・只・只だ→ただ 忽ち→たちまち 度→たび 為め→ため 漸々と→だんだんと 丁度・張度→ちょうど 一寸→ちょっと 就いて→ついて 遂に→ついに 何う・如何・怎う→どう 到頭→とうとう 兎角→とかく 処・所→どころ 処が→ところが 兎に角→とにかく 共→ども 猶・尚・尚お→なお 中々→なかなか 乍ら→ながら 何故→なぜ 成る程→なるほど (て)退→の 許・許り→ばかり 筈→はず 甚だ→はなはだ 不図→ふと 程→ほど 殆ど→ほとんど 正に・将に→まさに 先ず→まず 益々→ますます 亦→また 未だ→まだ 迄→まで 侭→まま 間もなく→まもなく (て)見→み 寧ろ→むしろ 各々→めいめい 以て・以って→もって 若し→もし (て)貰→もら 軈て→やがて 矢庭に→やにわに 揺らり揺らり→ゆらりゆらり 漸く→ようやく 余程→よほど 僅か→わずか 妾→わたし 私→わっし」
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※底本は総ルビですが、一部を省きました。
※底本の章見出しの記述が第一章のみ不揃いでしたが、統一しました。
入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(加藤祐介)
校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)
2010年4月19日作成
青文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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