体はサッと椅子から流れて、匕首一閃《ひしゅいっせん》の繊手は哀れ宙に支えられてしまった。
 彼はこんな事は日常の茶飯事だと云わぬばかりに別に驚きも怒りもしないらしい。そして刃物三昧には馴れ切った男と見えてちょっと肩を聳《そびや》かしたまま、黙って室内を大股に歩き出した。
 女は刃物を投げ棄《す》てて泣き出した。両手を顔に押し当てて泣く、啜《すす》り泣くたびに頭から爪先《つまさき》まで身を慄《ふる》わせる。
 代議士は再び彼女のそばに来てなおも卓を叩きつつ何事か囁《ささや》いている。女は断然|頭《かしら》を振ったが彼がなお執拗に云うや、足をもって床を踏み鳴らしつつ、ルパンにも聞き取れるほどの声で決然《きっぱり》と云った。
『厭です……厭です……』
 すると彼は何も云わずに、女が着て来た厚い毛皮の襟付の外套を取って、これをその肩にかけてやった。女は襟を立てて顔を包んだ。
 女は出て行った。

 ドーブレクの生活はすこぶる規律的で、ただ警官の張込をといた暁方《あけがた》に二三の来客があるばかりであった。そこで日中は二名の部下を見張らせ夜中はルパン自身で監視する事にした。
 前夜と同じく午前四
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