する事が出来ず、毛を吹いて疵を求むる底の事を為すよりは、唯々諾々として怪兇の命にこれ従うより外《ほか》はないのであった。ただし唯一の対抗策としてプラスビイユを警視総監に抜擢したのも、要するにドーブレクと個人的に仇敵の間柄であるためで、わずかにこれをもって政府の大敵たるドーブレクに対抗せんとする真意に外《ほか》ならないのだ。
『で、あんたは彼と御会いですか?』
『ええ、時々会いました。と申すよりは会わなければならなくなりました。夫《たく》は死にましたが、名誉はまだそのままとなって、誰れもその真相を存じていません。ですから私は最初に、ドーブレクの会見申込に応じました』
『その後、たびたび御会いですか?』
『幾度も会いました』と夫人は力ない声で云った。『ええ幾度も会いました……劇場とか……夜、アンジアンの別荘とか……パリーの邸とかで……それも夜です……と申しますのは、私もあんな男と会うのを人に見られるのが恥しいからでございます。しかしそれも私の胸にある一年から余儀なくああしなければならなくなったのでして……私の夫の讐《あだ》を晴らしたいばっかりに……ええ、復讐です。私の今日までの行動も、生きていると云うことも、ただこの一念からでございます。夫の仇、我が子の仇、私の仇、あらゆる苦しみを与えられたこの私の仇、それを晴らします……私はこの外《ほか》に何の望みもありません、何の目的もありません。私の望む所は、ただあの男を踏みにじり、彼の苦痛、彼の涙を見たいばかりです……あの鬼の様な男にも涙があるか……それを見とうございます。あの男の悲涙《ひるい》、あの男の絶望!』
『あの男の死もまた欲するんでしょう』とルパンは過ぎし夜の彼等両人の悲劇を思い出して云った。
『いえ、殺したくはありません。そんな事を思わぬでもなかったのですが……殺そうと刄の腕を振り上げた事もございましたが……あの男だってそのくらいの用心はございます。のみならず、あの連判状が残っておりますし、それに、何も殺すばかりが復讐ではございません……私の恨み憎しみはもっともっと深うございます、死にまさる苦痛を与えて、この世からあの悪人を滅《ほろぼ》さなければ止みません、それにはただ一ツの方法、あの連判状を奪い返し、その爪を剥いでやります。ドーブレクは連判状《あれ》を持っていてこそ、力もありますが、あれがなくてはドーブレクの存在が
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