、全く冷泉院の火災に本づいたのである([#ここから割り注]本書の末に跋文あり又息軒遺稿卷三に收む。[#ここで割り注終わり])。それは貞觀十七年正月廿八日の出來事で、祕閣の圖籍文書多く※[#「火+畏」、第3水準1−87−57]燼となつた。三代實録に此事を記して、廿八日壬子。夜。冷然院火。延燒舍五十四宇。祕閣收藏圖籍文書爲[#二]灰燼[#一]。自餘財寶無[#レ]有[#二]孑遺[#一]。唯御願書寫一切經。因[#二]縁衆救[#一]。僅得[#二]全存[#一]。とある。又翌日の條にも火猶滅えざるを以て人を募つて消防させた事や、これを指揮したものが猛火に繞まれて燒死んだ事などを記載してある([#ここから割り注]三代實録卷二十七[#ここで割り注終わり])。また同書によると、この火災の爲め遠慮して祭祀を停止せられた事も載つて居る。兎も角非常の大火で、金匱石室の藏が一朝烏有に歸したのは誠に殘念である。
 そこで朝廷でも再かゝる火災があつてはならぬと云ふので、この事件後に於て、本朝に現存する書籍目録の編纂に心懸け玉ひ、態々陸奧に居る佐世に勅命が下つた譯で、其出來たのは冷泉院の火より十七年以後の事である。當時
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