支那人心の新傾向
狩野直喜
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(例)※[#「厂+萬」、第3水準1−14−84]
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今晩何か茲に出てお話をして呉れと今村さんからのお頼みでありましたが、何分私は斯う云ふ席に出てお話する資格は無いのであります。併し折角の御依頼でありますから餘り御辭退するのは失禮と思ひまして講演の題目等も色々考へて見ましたが、矢張り私の專門と致しまする支那學の範圍に於て「支那人心の新傾向」と云ふことに就て暫くの間御清聽を願ふことにいたしたい。勿論支那人心の新傾向と申しましても夫が矢張り古來の支那の學術に關係を持つて居りますから、勢ひ經學者の學説に就てお話いたさなければならぬのであります。隨分お聽苦しいこともあらうと思ひますが其事は豫め御承引を願つて置きます。
先年支那に於きまする革命、又之に伴うて共和政體が成立致しましたと云ふことに就ては、此の支那の人心に尠からざる影響變動を起したのであります。勿論秦漢以來革命と云ふものは御承知の通り幾度もありまして、長くて三百年短かくて五六十年の間で以て一姓が倒れ、他の姓が之に代つて天下の主となると云ふことは歴史の上に決して珍しくないのであります。併し是等の革命もたゞ御承知の通り主權者名字が變つた丈でありまして、支那人の思想即ち政治道徳に關する思想に於きましては何等の變化が無いのであります。即ち從來の革命と申しまするものは堯舜は禪讓でありましたが湯武以來は放伐といふものがあり結局君主の徳が衰へて之を行はなかつたから民心が離反し、別に聰明英智の人間が起つて、さうして前代を倒して別に位號を正しくする譯であるが、禮樂制度は革命によりて變るけれども天下を治むるの道は堯舜禹湯文武の道に相違ないので、革命の起る樣になるのは其道が廢れたからで、之を新主が興すのである。故に支那の革命と云ふことは同時に復古と云ふことを意味するものであります。漢人が天下を取りましても、或は蒙古或は滿洲から起つて天下を取りましても同じ事であります。現に前清には滿洲から起りました康煕とか乾隆の諸帝が如何に此の儒教を奬勵し如何に學問に骨を折つたか、如何に此の兩帝が文武の道を踏襲したかと云ふことは、康煕帝の教育に關する勅語を一覽しても直ぐに分るのであります。
ところで此度の革命と申しまするものは之と全く違つたものであります。革命の結果として共和政府が出來ました。で是は支那歴史あつて以來最初の事であるのでありますが、勿論支那でも周の世に一時共和の政が行はれたと云ふことは史記や何かに見えて居る。「周の※[#「厂+萬」、第3水準1−14−84]王の時王※[#「彑/(「比」の間に「矢」)」、第3水準1−84−28]にあり王位を同うする十四年共和といふ」と云ふことが見えて居ります。斯くの如き共和[#「共和」に丸傍点]の文字は史記に見えて居るけれども、實際に於て今日亞米利加合衆國とか或は佛蘭西共和國を模型といたして作つた所の支那の共和政府とは全く關係のないことであります。此の政體が支那の從來の政體と違つたと云ふことは、是れは謂ふまでもなく西洋の思想を受けて斯う云ふ政體が出來たものであります。斯う云ふ政體の變動と云ふことは誠に非常な變動でありますが、是は詰り此の一部の支那人にありての思想の變動である。政體に關する變動と云ふことはたゞ其の一端に過ぎないのでありまして、從來儒教などで執り來つた所の政治道徳的の思潮に對して、近來一部支那人の間に懷疑の念を抱いて參つたのであります。此の政治道徳に關する思想から出來上つた所の數千年來の風俗習慣と云ふものは根柢から崩れ掛つて參つたのであります。勿論此事は今日に始つた事ではありません。丁度十年ばかり前に私が留學致しまして支那の南北に三年の間滯在して居りましたが、其時この支那の人心が變動を受けて居ると云ふことを當時感じましたのであります。隨分その時分には青年の間には儒教と云ふやうなものが迚も今日の時世に適せないのである、是からして舊道徳は廢れて新道徳が行はれなければならぬ、何うしても夫でなければ人心を滿足させることは出來ないと云ふことを唱へた青年があつたのであります。併し之は青年間に新しき空氣を吸つた一部分でありまして、當時の政治家學者の間には、まだそんな考はなかつた。例へば張之洞と云ふやうな人の考を聞きますと、形而下の學問と云ふものは何うしても西洋から採らなければならぬ、併しながら政治道徳の根本思想は支那に既に在るのであつて、決して西洋から採るに及ばない、詰り和魂漢才と云ふ言葉が日本にあれば、支那では漢魂洋才で往かうといふ考であつた。當時私は或人に對しまして今日の勢ひは西洋から形而下の學問ばかり採つて夫で事濟むと云ふやうな工合に考へることは出來ない、形而下の學問が支那に這入つたと同時に哲學、倫理、宗教と云ふやうな思想が是れは何うしても這入らなければならぬ。其時には支那の統一と云ふこと……支那人心の統一と云ふやうなことは何うなるであらうと云ふことを段々色々な人に話して見たけれども、當時支那の人はたゞ何等耳を傾けなかつたのでありますが、私が豫想致しました通り、此の形而上の思想がだん/\支那に這入つて參りまして儒教で以て統一された此の支那の人心と云ふものは段々統一を失ひ、支那の儒教を以て鼓吹した道徳を疑ふやうになり、また從來固く決つて居つた所の風俗習慣に對しても之を輕蔑するやうな事になつて來たのであります。例へば支那の婦人のやうな者でありましても、御承知の通り支那の婦人と云ふものは男女七歳にして席を同じうせずと云ふやうな事がありまして、是れまで支那の婦人は全く社會から殺されて居つたのであります。ところが此の頃は段々支那にも新しい女が出來まして、參政權の獲得を唱へると云ふやうな運動もやり兼ねない連中も隨分あるのであります。
私は一昨年歐羅巴に參りました序に一寸支那に參りました。歸りにも一ヶ月ばかり支那に滯在して居りましたが、歸途に支那に參りました時には南清の方から來ました或支那人の話を直接に聽いたのではありませぬですが、其人に話を聞いた人から聽きますと、此の革命以來南清地方と申しましたが決して南清地方に限りませんが、南清は此の革命の元でありますから殊に左樣であるか知れませんが大變に社會上の變化がある。例へば離婚のやうな事があります。支那に離婚と云ふことは是まで非常に少ないのでありました。ところが其の離婚と云ふやうなことは此頃非常に起つて居る。夫から先年から新聞紙上にも見ることでありますが自由結婚と云ふ、自由と云ふことを穿き違へたか知れないが、是までの習慣に據らずに、親の命令に從はずに結婚する。其中には色々野合と云ふやうな事もありませうけれども、また正式の自由結婚と云ふものもあります。之を名づけて一名文明結婚と申します。文明とは餘程オカシナ熟字であります。
それから商賣上に於きましても御承知の通り支那人は此の商賣人間の信義道徳と云ふものは隨分固く守つて居りましたが、商賣人間の信義道徳と云ふやうなものも革命以來非常に崩れて來たと慨嘆して居る人があります。夫から子供が親の言ふことを聽かない、弟が兄の言ふことを聽かぬと云ふやうなことは昔よりは非常に薄弱になつた。此點に於きまして心ある人は大變に心配をして居るのでありますが、此の心配をいたすことは當局者の間にも隨分心配をして居る人もあるし、また民間の人にも隨分あるのであります。私が昨年北京へ參りました時に向ふの教育部、即ち此方で申しまする文部省でありますが、文部の次官で會ひたいと云ふ人に一寸會ひましたのでありますが、將來此の道徳教育と云ふものは何う云ふ風にやつたら宜からうかと云ふやうな話もありました。
支那人心が段々動搖をして居るに就ては之を維持して支那の國民の道徳を保つて行くかと云ふ問題であります。之に就ては矢張り支那人の考でありますと、矢張り支那在來の道徳或は宗教と云ふやうなものを無くしては何うしても支那人には適合しない。何が一番都合が好いかと申しますると、矢張り儒教と云ふことになるのであります。それで斯う云ふ工合でありまして、此頃は儒教の復興と云ふやうなことを唱へる人が隨分多いのであります。尤も然う云ふことを唱へる人には色々種類がありまして、昔の老儒とか云ふやうなものは昔の學問はえらい、何うしても之を保存して行かなければならぬと云ふやうな考の人もあります。夫から中には日本や亞米利加等に參つて西洋の教育も受け、夫から支那の教育も受けて居る者がです、何うしても此の支那を盛んにするには保存と云ふよりも寧ろ儒教の精神を發揮して大いに是で以て支那を盛んにしなければならぬと云ふ人も隨分あるのであります。
ところで先年以來共和政體が出來まして、果してその政體が儒教と一致調和することが出來るか何うであるかと云ふ問題が起るのでありますが、儒教は專政時代の遺物である、今日共和時代になつた以上此の儒教は全く無用なものであると云ふ論者も隨分あるのであります。
支那には御承知の通り文廟、即ち春秋に孔子を祀る所が各府州縣にあります。それが此頃は段々問題となつて文廟を毀してしまふとか、それに附いて居る田地を沒收することが始まり懸けたので、之に對して儒教復興の連中は躍氣になつて今騷いで居るのであります。丁度私が昨年北京に參りました時には是等の連中が集つて久しく廢されて居つた所の釋奠即ち孔子祭をやりました。私も案内を受けまして其のお祭りに參列致しました。衆議院議長が主祭者でありましたが、其發起人は廣東人で長く米國にあつて、コロムビヤ大學を卒業した陳煥章といふ人でありましたが、朝野の名士が皆之に贊成して出席者も非常に多かつたのであります。
斯う云ふ工合に人心動搖を始めました際に儒教を盛んにしようと云ふ考は無理からぬことゝ思ひますが、今申し上げた通り共和制と儒教との調和如何と云ふことであります。言ひ換へて見ると云ふと、儒教で以て此頃支那人の民主思想を説明することが出來るかと云ふ問題に歸するのでありますが、儒教では御承知の通り五倫と云ふことを説いて居ります。五倫の中でも君臣と云ふものは大變重んぜられて居る。孔子が春秋を作つたのは所謂尊王の大義を發揮したと云ふことになつて居ります。何うしても如何に考へましても孔子は君主政體と云ふものを理想として居られたやうに思はれるのであります。孔子の教を尊重しようとすれば現今の政體或は民主思想に對して反對し、又た共和の趣意を發揮するには儒教を排斥しなければならぬのでありますが、此の儒教と申しましても漢學とか或は宋學とか、宋學の中でも朱子とか陽明とか色々の派があるのでありますが、此の復古論を盛んに言うて居る人達の中では儒教の中に公羊學派に屬する人、即ち公羊學を信奉する人があります。此の公羊學と云ふ立場からして儒教を説明し、さうして前に在りました儒教と現在思想との調和を圖らうと思つて居るのであります。此頃新聞でもお氣付きになつて居らうと思ひますが、政府及び議會に對しまして此の儒教を以て國教とすると云ふことを憲法の中に明記したいと云ふ請願をした連中があります。此の連中は前に申しました此の儒教復興と云ふことを唱道して居る所の其の連中であります。然らば此の公羊學と云ふものは一體何う云ふことを教へるものであるか、何う云ふ説を持つて居るかと云ふことを一寸お話して見ようと思ひます。
一體此の儒教と孔子との關係に就て從來二つの觀方があるのであります。一つは孔子を作者として、夫からもう一つは孔子を述者とする、此の二つであります。其事は後で申し上げますが何方の觀方に致しましても、此の經書の中で春秋に就ては孔子が書かれたものとなつて居ります。一方の作者としての側から申しますと無論孔子が春秋の全體を書いたとしてある。また述者とする論者の方から見ても孔子が此の春秋に筆を入れて或部分を削られたものと見るので、孔子の教
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