になりますと、全く學術の演説になりますから申し上げませんが、公羊學だつてたゞ頭から之を貶す譯には參りません。で是れはオカシナ點だけを今申したのでありまして、此中に今まで申し上げました外に隨分公羊學の惡いこともあるのでありますが、又一方左傳必ずしも孔子の眞意を傳へたものとは言はれません。各々長短得失がありますが其事は一切拔きに致しまして、此の公羊學と云ふものは果して今日の儒教復興論者の言ふ通りに眞に正しいものであつて、孔子の思想を正しく傳へたものであるかと云ふことは是は疑問であります。併しながら漢時代には流行つて居りましたが餘り其説が僻して居るので後には絶えて、又前清時代の後半期から流行したものであります。今日一時逃れに若し儒教を立てなければならぬと云ふことを前提と致しまして此の共和政體と矛盾のないやうに致しまして此の儒教を唱へることになると、此の公羊學と云ふものが一番差障りがないか知らぬと思ふのであります。けれども此の學問と云ふものは一時珍らしいからツヒ人が耳を傾けるやうな事でありますけれども、決して斯う云ふ説と云ふものは長く續きまするものではありません。儒教の眞實の思想を傳へたものでないと云ふことは直ぐに分るのであります。斯う云ふ思想があるのは二年三年五年六年ぐらゐは續くか知りませんが、其後には又支那の人心に於きまして新しい或物を求めると云ふやうな時代が出て來るか知れません。要するに支那人と申しまするものは御承知の通り色々の人種が集つたもので、人情風俗習慣みな國々に依つて違つて居りますから之を統一するは非常の困難であるが、兎も角儒教でもつて統一が出來て居つた。漢の武帝以來この新しい代が興りますと必ず儒教を奬勵したのは其爲めである、然るに今日かう云ふ時世になつて公羊學を主張して之れに依つて儒教を以て人心を統一せんとする企圖に同情はするが、それが果して出來るか否は頗る疑問と思ふのであります。
 もう少し申し上げたい事もありますが、要するに私の今申し上げましたのは此の革命以來支那の人心に斯う云ふ新しい傾向を持つて來たと云ふことを一寸お話した丈であります。甚だ前後不揃ひでありましたが是で止めて置きます。
[#地から1字上げ](大正三年二月講演、京都經濟會講演集第三號)



底本:「支那學文藪」みすず書房
   1973(昭和48)年4月2日発行
初出:「京都經濟會講演集第三號」京都經濟會
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:はまなかひとし
校正:染川隆俊
2009年1月20日作成
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