儒とか云ふやうなものは昔の學問はえらい、何うしても之を保存して行かなければならぬと云ふやうな考の人もあります。夫から中には日本や亞米利加等に參つて西洋の教育も受け、夫から支那の教育も受けて居る者がです、何うしても此の支那を盛んにするには保存と云ふよりも寧ろ儒教の精神を發揮して大いに是で以て支那を盛んにしなければならぬと云ふ人も隨分あるのであります。
 ところで先年以來共和政體が出來まして、果してその政體が儒教と一致調和することが出來るか何うであるかと云ふ問題が起るのでありますが、儒教は專政時代の遺物である、今日共和時代になつた以上此の儒教は全く無用なものであると云ふ論者も隨分あるのであります。
 支那には御承知の通り文廟、即ち春秋に孔子を祀る所が各府州縣にあります。それが此頃は段々問題となつて文廟を毀してしまふとか、それに附いて居る田地を沒收することが始まり懸けたので、之に對して儒教復興の連中は躍氣になつて今騷いで居るのであります。丁度私が昨年北京に參りました時には是等の連中が集つて久しく廢されて居つた所の釋奠即ち孔子祭をやりました。私も案内を受けまして其のお祭りに參列致しました。衆議
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