すると云ふやうな遣り方であつた。それで此の公羊學と云ふやうなものも漢の時に盛んであつたものですから、勢ひ公羊學の研究と云ふやうなものも清朝では盛んでありまして、有名な公羊の專門家も居ました。現存する人でも湖南に王※[#「門<豈」、第3水準1−93−55]運と云ふ人が居ります、四川に廖平と云ふ學者が居ります、夫から康有爲と云ふ人も公羊學の代表者のやうになつて居りますが此の人は殆んど廖平の説を奉じた樣に見えます。夫から司法大臣をして居りました梁啓超、之も康有爲の弟子でありますから公羊派に屬しております。又一方では公羊派に反對の學派も隨分あるのでありまして先年亡くなりました張之洞などゝ云ふ者も此の公羊派とは正反對の地位に居つた者であります。支那ではまた政治上の爭と學術上の爭とは殆んど同じものである。昔から支那では政治の爭を云ふものには必ず學問の爭がくツ附いて居つたのであります。
公羊學と云ふのは夫では何う云ふことを主張するものであるかと云ふことを少しく申します。公羊學者は第一孔子の改制といふ事を申します。孔子が春秋を作られたのは孔子の新法を作る目的で書かれたもので、孔子は魯の歴史に據つて春
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