すると云ふやうな遣り方であつた。それで此の公羊學と云ふやうなものも漢の時に盛んであつたものですから、勢ひ公羊學の研究と云ふやうなものも清朝では盛んでありまして、有名な公羊の專門家も居ました。現存する人でも湖南に王※[#「門<豈」、第3水準1−93−55]運と云ふ人が居ります、四川に廖平と云ふ學者が居ります、夫から康有爲と云ふ人も公羊學の代表者のやうになつて居りますが此の人は殆んど廖平の説を奉じた樣に見えます。夫から司法大臣をして居りました梁啓超、之も康有爲の弟子でありますから公羊派に屬しております。又一方では公羊派に反對の學派も隨分あるのでありまして先年亡くなりました張之洞などゝ云ふ者も此の公羊派とは正反對の地位に居つた者であります。支那ではまた政治上の爭と學術上の爭とは殆んど同じものである。昔から支那では政治の爭を云ふものには必ず學問の爭がくツ附いて居つたのであります。
 公羊學と云ふのは夫では何う云ふことを主張するものであるかと云ふことを少しく申します。公羊學者は第一孔子の改制といふ事を申します。孔子が春秋を作られたのは孔子の新法を作る目的で書かれたもので、孔子は魯の歴史に據つて春秋二百四十二年間の歴史の事實に就て其の歴史を書き直し、其事に就て毀譽褒貶を加へ孔子の教義を其の春秋の中に含ませられたと申すのである。左傳の學者に言はせますと孔子は周公の法に據つて春秋を作つたと言ひます。公羊では夫に反對して孔子は自分で新教を書いたものだと云つて居りまして周法とは全く關係がないのみならず、孔子は春秋に依つて周の制度を改めたと云ふのであります。公羊學者に言はせますと孔子は周公などを理想としたものではない、孔子は孔子自身の理想がある、決して周公や何か昔の聖人のことを理想としたのではない、自身の教を立てたものである。
 夫からもう一つの考は孔子は儒教の教祖であると云ふ考である。普通の説では儒教は堯舜以來の道であつて孔子はこれを述べて後世に傳へられた、即ち別に孔子の道といふものはない事になる。孔子の偉い處は周季に詩書禮樂が崩壞したのを整理してさうして之を保存された事である。然るに公羊の方では結局孔子は六經を自身に作られて之を自分の經典とされたものであると斯う云ふ風に觀て居るのであります。
 夫から第三の點を申しますと孔子は天命を享けて法を作つたものであると申します。孔子は春秋を作
前へ 次へ
全12ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
狩野 直喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング