義と云ふものは最も能く春秋に顯はれて居ると謂はなければならぬ。それで孔子も「我志は春秋にあり」と唱へて居ります。孔子の理想と云ふものは春秋の中に含まれて居ると云ふことであります。孔子が春秋を作つて之を門人に授けられまた、門人達がこれを後世に傳へたと云ふことになつて居ります。さうして其中に三つの派があります。一つは左丘明と云ふ者の傳へたもので之を左氏傳と申します。夫から一つは公羊高と云ふものが傳へて居ります。夫からもう一つは穀梁赤の一家で以て傳へて居るものがあります。之を三傳と申すのであります。是はお聽難いか知れませんが、先きの事を申すのには一寸申して置かなければなりません。ところで此の公羊と穀梁と云ふものは漢の時分で前漢の時代には大變に盛んであつて、詰り政府から其の學問を認めて學校の教科書にされた。學校の教科書にすれば其の學問を傳へるところの所謂博士官と云ふものを置きまして其の學問を教授させたものであります。ところが左傳と云ふものは今でも漢學をやつた者は讀むものでありますが、當時は學官に立てられず、唯だ極く少數な人が讀んで居つた。前漢時代には出なかつたのであります。ところが前漢の末になつて王莽と云ふ惡い奴が居りますが、王莽の信用を得た劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]と云ふ學者が左傳を主唱して其の爲めに前漢の末後漢の世から此の學問が盛んになつた。後漢以來は此の左傳の學問が盛んになつて唐の時代になりますと公羊穀梁をやる者は殆んど無くなつて誰でも春秋と左氏傳とはくツ附き物のやうになつて居つて、何でも此の漢學が日本に這入りましたのも矢張り支那の眞似をしたものでありまして、日本の王朝時代に矢張り左傳と云ふものが流行つて居つた。尤も公羊學と云ふものもやつて居つた人も居つたやうであります。例へば重盛が清盛を諫めた言葉の「家事を以て王事を辭せず」と云ふやうな言葉はあれは公羊傳に有名な言葉であります。夫から惡左府頼長の日記を見ますとあの人は大變勉強家でありますが、あの人の日記を見ますと其の公羊傳を讀んだと云ふことが書いてあります。けれども日本でも支那と同じやうに左傳が流行つて來たのであります。
 ところで此の公羊は支那の唐の時には殆んど絶えて居たのでありますが、清朝に至り元明の學問の反動と致しまして漢學をやつた。漢の人の學問を復興して漢の人の註や何かに依つて孔子の説を欽慕
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