議論を新聞で承る。誠にさうでなければならんが私は之と同時に支那を研究するには外交と同樣自主的でなければならんものであつて西洋人のやつた後を追つて支那を研究する態度を採らない。東洋人として日本人として學術的に支那文化を會得しなければならんと思ふ。我國の今日の學問は西洋人の後計りを追つて、支那方面の研究をするものは甚だ少い、支那と我國とは密接な關係を有し、支那文化の影響を過去に於て受けて居る事も多大なるに拘らず又實際の必要も非常に多いのでありますが、又我國に於て少數の學者が支那の研究をやつて居るけれども一般の國民としては支那に興味を持たない、之に就て私は西洋に於ては支那の事をどう云ふ具合に研究して居るかお話したい。私は十年以前の事でありますが歐洲に出掛け歐洲に於て支那學の研究がどう云ふ具合に行れて居るかと云ふ事を見たが、西洋に於ては、英、獨、佛、露、墺、伊の各國は皆大學に支那學の講座の無い處はない。又英獨露の如き實用を旨とする東洋語學校今日我國に於ける高等商業學校のやうなものが語學を主としてやつて居る、此状况を見て私はかう云ふ事を考へた。即ち歐洲で支那學を研究する態度は二つある、一つは何であるかと云ふと支那の文明は世界文明の一つである、印度、エジプト、希臘羅馬文明と並駕すべきもの即ち人類が過去に於て作つた驚嘆に値する産物であるとし、これを學者が智的對象として研究するものであつて其文明を研究する以外に何等目的はない、凡そ學問には申すまでもなく學問を目的としてするものと學問以外に他の目的があつて其目的の爲めに學問をする者との二つある、例へば支那の學問に就ても地質學者が支那に於て鑛山を調べる地理學者が支那に於て道路河水の交通を調べる其學問の立場より地質地理を調べるのと、又支那から鐵の材料を取りたい、石油を採りたいと云ふ目的があつて其目的を以てやるのとやり方が違ふ、勿論地質學者、地理學者の研究の結果を工業家商業家が利用する事は勝手であるが、學者自身が學者として自己の知識を滿足せしめる爲めにやるのがある。厚生利用も結構でありますが唯學問の役立つか否か、學問をして直接如何なる利益があるといふこと計り考へては、眞の學問の價値といふものは分らない。大きい意味より云ふ學問の發達文明の進歩は只實用實用と考へて進むものではありません、唯實用計りを目的とせず研究した結果が一般の人を利益する事があると同時に其學問進歩を辿るに純粹の學問と云ふ考へからやらなければならん、歐洲に於ける支那學問の研究に付ても純粹の學問と云ふ立場でやつて居る處の國は先づ佛國であらうかと思ひます。勿論お斷りをして置くが之は極めて概括的議論で純粹の學問をやりましてもそれら應用的部分が全く含まれて居らんと云ふ事もありません、應用的に研究しても其内に學問的の部分がないと云ふ事は云はれんが、概括して云へば先づ學問と實用との二つに分れるかと思ひます。どう云ふ譯で佛國に支那の學問が純粹の學問となつてゐるかと云ふとそれには長い歴史があります、時間の制限がありますので詳しく述べられませんが支那と佛國との關係は最も古かつたのであります、其關係と云ふ事は明の萬暦年間天主教が支那に這入つて天主教の内でもゼシュイット派の僧侶が支那に這入つた、彼等は支那で布教をしようとするのに支那は佛教國と聞かされて居つた、佛教國なれば僧侶の眞似をなすのが一番傳教に都合が良いと云ふので彼等佛教僧侶の着物を着、僧侶の姿をして人民の尊敬を得んとしたが、程なく支那には佛教以外に儒教と云ふものがあると云ふ事を聞いた、而して人民が尊敬して居るのは佛教の僧侶でなく儒者であると云ふ事を聞いた、そこで今度は僧服を脱ぎ儒者の着物を着た、天主教を宣傳するに支那固有の經典を知らなければならん、其道徳文學等も良く知る事が必要である、先づ第一に人民に布教するに自ら漢文を知らなければならんと云ふので支那學を勉強した、斯くする内に斯う云ふ問題が起つた、それは、天主教を宣傳するに神と云ふ名を支那では何んと云つたらよからうと云ふ問題である、支那の經書には神の事を上帝或は上天と云つて居る、それで神の代りに上帝或は上天と云ふ言葉を使ひ更らに支那の社會を見ると支那人は祖先を崇拜する、孔子を祀つて其神位の前に禮拜する。之は一體宗教であるか何んであるか若し之が宗教であつたなれば苟くも天主教に這入る者は此習慣を禁じなければならん、若し宗教でなければ天主教に這入つても此習慣を許しても差支へないと云ふ事から支那の本を讀んで支那人の宗教道徳思想を研究した、そこで彼等は之を解釋していふに之は孝道から來る、父母の生きて居る時には之を養ひ死んでから之を祭ると云ふ事は父母の生存して居る時の態度を死んだ後まで及ぼすので、父母に對する敬意をそれが死んだ後まで延長する意味に過ぎない、孔子に對する崇拜も然りで孔子が支那人の精神的生活の上に非常な功勞をして居られる、仁義、孝道を知つて居るのは全く孔子のおかげであると感謝する意味で之は誠に人間の美しい心の現れである決して宗教ではない、天主教の教義と違背するものでないと極めた、而して天主教に這入つても昔の習慣を守る事を許したのであります、それで暫らくの間に天主教に這入る者が澤山あつた、處がゼシュイット派以外にフランチスカン、ドミニカンと云ふ宗派の宣教師が支那の孔子崇拜祖先崇拜は一つの宗教である之をゼシュイットが許すのは怪しからんと云うて羅馬法王に訴へた、そこで羅馬法王は嚴令を下して之を禁止した。ゼシュイット派では又辯解して支那に於ける祖先崇拜は宗教的意味のものでないと云ふ事をいひ、其爲めに態々宣教師を羅馬に派遣した。さう云ふ事から其支那の事情が學者に注意せらるゝ樣になつたのであります、其時分まで天主教と云つても必ずしも佛國生れの宣教師が行つたと云ふ譯ではないが、清朝の初め康熙帝の時分に佛國の宣教師が澤山支那に參つて布教をする傍ら支那の學問をなし支那の書籍又は飜譯物なぞを佛國に送り巴里の圖書館に此等を備へ付けてゐる、それで支那の學問は歐洲でも佛國では最も早く起つた、其影響から天主教僧侶以外に佛國に於ける支那に一度も行つた事のないと云ふ學者の間にも支那の學問を學問的に研究するものが出來た、此時分から佛國に於ける支那學は單に實際の必要上からやる計りでなく、學者が其知識慾を充たす爲め純粹な學術的の立場から支那の經史言語等を研究する樣になつた。そこで佛國大學、即ち「コレツヂ・ド・フランス」に於て一千八百十五年即ち今より百年前其大學に於て支那文學の講座が出來て只今は支那方面の事を研究する講座は二つ出來てあります。教授も其大學に初めて教授になつた人から只今ゐる教授が已に五代を經て居ります、又此拾年以前佛國の教授のペリオと云ふ人が支那に學術探檢をして甘肅省の西北隅の敦煌に於て、千佛洞と云ふ處で宋の初めに兵火の難を免れる爲め寺の石壁の中に藏込み置た古い鈔本殆んど一萬通に達するものを發見した。それが只今巴里の圖書館に這入つて居るが其中には從來支那に於ても我國に於ても已に亡くなつて傳はらなかつたものが發見せられて支那學に非常な革命を來して居ります。又佛國に於ても佛領|河内《ハノイ》に於て、極東學院と云ふ名を附した學校があります、之は學校とは云ふが一つの研究所であります、學生は一人もありません、日本部支那部安南部と分れて專門の學者があつて宗教、文學、言語、歴史、美術と云ふ風に支那日本の事を研究して居る、私は支那部教授も日本部教授も皆知つて居るが日本部教授は二三年前亡くなりましたが、其日本通は實に驚くべきもので吾々よりもモツト文法的に正しい言葉を使つてゐました。能樂に興味を持つて居つて謠《ウタヒ》の間拍子まで良く心得てゐる程の人であつた。かゝる具合であるから佛國人は自ら誇つて西洋に於ける支那學は佛國が本家であると云ふやうな事を本に書いてある、あながち國自慢の言葉ではないかと思ひます。そこで之を我國に於て照らして考へて見ると、我國が從來如何に支那文明に負ふ處の大であつたかは今更申すまでもない事であります、過去に於て我日本の歴史文學美術工藝凡て何事も支那の影響を受けないものはない、支那の文明を知らずして我國過去の文明を理解する事の出來ないと云ふ事は申すまでもない。此點より見れば我國に於て支那文化の智識的、學術的研究が必要である事は言を待たない。然るに殘念な事には我國一般の人士は西洋の智識を得ることに計りに汲々として支那文化の研究は必要でない、學者の閑事業位に考へて居るから、日本人でありながら日本過去の文化も從つて分らない事となる。
以上は純粹な學術的の立場から支那を研究する事のお話でありますが、第二段に於て政治上、貿易上、總べて實際の利害關係より支那を攻究すると云ふ立場、其國々は何處かと云ふと、英、獨、露であります。最も御斷りをして置くが私は十年以前の事を話してゐるのであります、米國へ私は參りませんが米國と支那の關係は深くなつて來たが、支那學研究といふ點からいへば歐洲諸國に及びません。尤米國にも只今二三名の支那學者が居て立派な研究の結果を出しては居るものゝそれは主として獨人、或は獨逸系の人であります、米國では餘り金儲が忙しいから支那の學問までする餘裕がないのであるか分りません。然るに英國はさうでない、支那學は昔から闢けて居てモリソン、スタウントンなどの學者も出た。一體英國と云ふ所は第一外國を非常に輕蔑する、自分が一番優秀な國民だと云ふ自惚れを持つて居るから、外國殊に東洋の事などを研究するに、其國人の頭になつて考へる事をしない。何時でも己が偉い、支那文化は一段劣つたものとの先入の見があり、又一種の色眼鏡をかけて判斷する。又英國人が支那に對する興味は貿易であるから、支那の研究でも或る必要といふ事から出發する、學究的に實用を主とせずして遣る傾向は少ない。而して其研究をするものは外交官とか、領事とか商人とかで、職務の傍ら色々の事を只物好きにやる所謂素人が多い。かゝるものが年を取るに隨つて大學の教授になる、或はそれが英國人の長所かしらんが又短所であります、支那の事に付て書いた本を讀んでも素人に解るやうに書いてある、極めて大きい問題をつかまへて概念を與へるやうに書いてある、一部刻みに細かく事實を考證するといふ風が乏しい。夫れから獨逸であります、獨逸は御承知の通り各般の學問の極めて盛んな國でありますが、其國と支那との關係が英佛の如く古くないから、或特殊の事柄を除き、支那文化の研究に就いて申さば將來はいざ知らず過去に於ては兎に角餘り進んではゐない。先年伯林大學の正教授で支那學を擔任したデホロートと云ふ人がありました。元來此人は和蘭人で獨逸人ではありません。元來ライデンの教授であつたのを獨逸皇帝が和蘭に懸合ひ無理に伯林へ引張つて來たのであります、私は先年伯林で此人を教室に訪ね、又客にも招かれて御馳走にもなつたが私は此人の話を聞いて驚いた、其人が話すのに自分は獨逸皇帝の招聘に應じて伯林に來たが皇帝が私にかう云ふ事を申された、朕は之から獨逸の大學に支那文學の講座を置きたいが殘念な事には獨逸には立派な支那學者がゐないから、お前どうか之から其教授の卵子を拵らへて貰ひたい其ためにお前を招聘したと云はれたといふ事であります。ホロート教授は支那學では造詣の深い人で、支那宗教大系と云ふ大きい著述をして居る方ですが、其人が話すには凡そ支那國民を理解するには、其宗教を知ることが必要である、然るに宗教といへば勿論佛教も必要であるが同時に道教も必要である、支那の民衆、殊に下層階級の風俗習慣等を理解するには道教が必要である。然るに其經典は收めて道藏にあるが、之を得ることが極めて困難である、幸ひ貴國の帝室の御文庫中に收まつて居る(之を知つて居つたのには私も驚いた)何故に貴國で此貴い經典を重刻して廣く學界に益する樣にしないかと云ふのである、そこで私は其困難な事情を述べた。それは何となれば御承知の通り佛教の藏經は我國に佛教各派の本山も澤山あるから其本山だけで買つても出版費が出るとして、道教と云ふものは元來宗
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