支那研究に就て
狩野直喜
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私は校長のお招きに應じて講演を致す爲めに罷り出ました。誠につまらないお話でありまして定めて皆樣お聞辛いであらうと考へますが暫らくの間御靜聽を煩します。私は今日支那研究に就てと云ふ題でお話を致さうと思ひます、最近我國[#「最近我國」は底本では「最我近國」]、朝野人士の間に支那研究の聲が段々高まつて來たやうに感じます、之は現今我國が歐米諸國と相對立して參りますには從來のやうに支那と反目して居つてはいけない、兩國提携して歐米諸國に當らなければならんと云ふ考へから起つたものかと考へる。相提携して之に當るには支那を理解する事が必要である、互に仲よくする事が必要であると云ふ事になると先づ支那を知らなければならんと云ふ所から支那研究が唱導せらるゝ譯であると思ひます。斯う云ふ議論を抱く人は主に現今の我日本と云ふ立場から考へる人であつて、政治家、外交家、財政家、實業家と云ふ方面の方に行はれると思ひます、今少しく進んだ方では東洋文化と云ふ樣な事に注意して、數千年來東西に興つて今日まで發達し來つた處の文化も宗教も道徳も政體、藝術、文學の類に至るまで全く東西性質を異にするのであつて、それが東洋西洋人の精神的生活、物質的生活を形造つて居るのである、處が今日に我東洋は西洋文化の爲めに壓迫せられて東洋文化が其光を失つて來た、而して元來東洋文化と云ふのは決して西洋文化に劣るべきではない、却而或點に於て之に優つて居る、それで我東洋人の立場としては其固有の文化を研究して之を世界に宣傳しなければならん、然るに東洋文明と云ふもそは先づ支那が代表的なものであると云ふ處から支那研究となる譯であります。今日我國の現状に對する或反動的の運動と見ても差支へないと思ふが、兎に角斯の如き其動機目的は之を唱へる人によつて一樣でないけれども、支那研究と云ふ聲の聞ゆる事は私共支那の學問を專攻する者にとつては少からず注意を引かされる事であります。さて此研究と云ふ事でありますが、之は口には云ひ易くして仲々之を實行し此の研究を爲し遂げると云ふことは頗る困難であります。一體我國と支那とは文字も見方によつては同一である又發音も少しは似通よつてゐる、又文章即ち漢文と云ふものは我國では
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