する事が出來ない、矢張り支那の學問をしなければならんと思つて中年から初めて支那の學問を修め段々支那の事が解るやうになつた。此頃お國の人も(日本の事)西洋人が色眼鏡を以つて支那を見ると同一の態度で支那を視るから大變觀察を誤つて居つたと云はれた。一體辜氏の議論は少しく矯激に失する點もあるが支那を外國人が一種の色眼鏡をかけて見ては解らんと云ふは間違ひない言葉であらうと思ふ。
 それで支那研究と云ふ事になるが前に申しました通り我國の人は西洋人よりも支那を知る便宜を持つて居るし、實際支那通が非常に多いのでありますが、此等の人の知識は多少の例外を除いても只現在の支那、支那現在の事情を詳しく知つてゐるに止まるものが多いと思ふ。例へば支那人の政治上の問題に就いても我國の人は支那の人物例へば張作霖、段祺瑞、馮玉祥と呉佩孚、某と某と云ふ個人的關係を能く知り、誰れと誰れは結びつける可能性があるが誰れと誰れは結びつけられんと云ふやうな事には非常に興味を有し、又かゝる個人的關係は詳しく知つて居る。又商業の事に付ても(私は商業の事は全く存じませんが、)恐らく日本の人は西洋人よりも支那の實際の樣子、支那の某地には何といふ物産があるとか其地の商習慣がどうであるとか、斯の如き事柄は良く知つて居ると思ひます。併しながら尚一層進んで支那の宗教、道徳、政治、文學、或は支那の國民性支那文化の性質はどうかと云ふ樣な事、或は支那の動植物、鑛物、地理と云ふ事に付て、所謂學術的研究をする上に付て、どれだけ西洋人よりか我國の人が優つて居るか、西洋人の研究の結果より我國人の研究の結果の方がどれだけ優つてゐるかと云ふ事になると殘念ながらさうは優つて居ない、之は勿論私共支那を研究するものゝ恥辱であると云ふ事は申すまでもないが、一般の國民も惡いと思ひます。何でも今日の我國は西洋文化を有難がり西洋の事さへ知ればよろしい、てんで支那に興味を持つてゐない、我國の若い人達が漢文と云ふ事になると初めから嫌な感じを以つて迎へる。支那の事に付てどうして其智識を得るかと云ふと、支那の學者や日本の學者が研究したる者よりも、西洋人が研究したものであると、それを通じて支那の事情を知る。結局西洋人のかけた色眼鏡を拜借に及んで支那を見て居る、一體我國の支那に對する外交は自主的でなければならぬ、歐米の御先棒に使はれてはいかん歐米に追從してはいかんと云ふ
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