相爭つてゐる時代に於て、殊に南方に於て學問藝術其他のものが非常に發達して、それが唐の時代に立派な實を結んだのであります。支那の歴史に於て唐ほど文化の燦爛たるものを見た事はない。我國にも非常な影響を與へて居るが、それは南北相爭つて居つた其時代から培養せられた産物であります、決して唐に至つて俄かに出來たものではありません。つまり支那に於て戰爭があつても國民は皆之に沒頭する譯ではない。勿論太平の時代の樣な事はないかしらんが、矢張り學問は學問、商業は商業、工業は工業として進歩して、かう云ふ歴史を以つて居るから日本及び外國人の考へる樣に國家の統一と云ふ樣な事にはさほど熱心ではない、我國の新聞で支那の統一を云つて居るが之は日本人や歐米人が心配する事で、支那人自身がそれほど心配して居るかどうか解らん。而て支那に於ては時期を辨へず無理に武力などを以て統一をしようと思つて出て來る人物があると、却て人民の恨みを招き失敗した例が澤山ある。斯う云ふ事は西洋人にも理解が出來ず、我日本人にも理解出來ない事であります。一體支那の國民性はどうだとよく人は申します。西洋人の書いた本などを見ると一概に支那國民は保守的である、支那文明は保守的だと云ふが、果して支那人は保守的の國民だか斷言は出來ない。或一面には日本人よりも突飛な極端より極端にゆく傾向がある。今日の支那人の政體又は其思想を見ればあれが進歩だか退歩かしらんが、兎も角突飛なやり方である。あの儒教が長い間培つた支那でありながら、近頃になると孔孟を罵倒したり非孝説などいふものを公然唱導して一切の舊道徳を根底から覆さうとしてゐる者すらあります。
 又一概に支那人は人を欺ます、ずるいと云ふ事は西洋人の書いた本にも澤山あるが、一概に支那國民性はさう云ふ者であると斷定する事はそれは出來ないと思ふ。個人としては非常に律儀な義理堅い點も發見するのである。さういふ風で中々支那の事となつたら一言でかうと言ひ得ない。先日もある支那の學者で非常に保守的な傾向を持つた辜鴻銘と云ふ人が我國に來たので私も京都大學で遇ひました。其人の話に自分は久しく西洋に留學して十三から外國ばかりに九年居つた、頭が西洋人の樣な頭になつて支那に歸り其頭を以つて支那本國を見た處が初めは何にも解らなかつた。其處で自分の思ふには支那人として、假令《タトヒ》西洋に行つて西洋の學問が出來ても支那の仕事を
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