支那近世の國粹主義
狩野直喜

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)本《ホン》の一時で、

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(例)※[#「さんずい+斯」、第3水準1−87−16]滅

 [#…]:返り点
 (例)最重[#二]國文一門[#一]。

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(例)それ/″\の
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          一

 支那で國粹保存などいふ事を唱へ出したのは極めて近年のことで、以前には全く無かつたのである。一體かゝる思想は、他國の種類を殊にする文明が俄に侵入し來つて、自國固有の文明が其爲めに破壞されやうとし、或は破壞までは行かずとも、他國の文明の爲め自國の文明が、幾分か光輝を失ひ懸るといふやうな場合に起るものである。
 然るに支那は數千年の昔から自國固有の文明を持續し來つて、其根柢に變化を生ずるまで、他國文明の影響をうけた事はないから、國粹保存などいふ思想も、また從來なかつたのである。其證據には國粹といふ熟語は、今でこそ上諭奏摺或は通儒名士の文中に見えて、國内の通用語となつて居るけれども、經典は勿論近人の集までこれを使用したものはない。即ち光緒三十三年([#ここから割り注]我明治四十年[#ここで割り注終わり])六月に當時湖廣總督であつた張之洞が存古學堂を立んことを請ふの疏に

[#ここから2字下げ]
竊惟今日環球萬國學堂。最重[#二]國文一門[#一]。國文者本國之文字語言。歴古相傳之書籍也。即間有[#下]時勢變遷不[#二]盡適用[#一]者[#上]。亦必存而傳[#レ]之。斷不[#三]肯聽[#二]其※[#「さんずい+斯」、第3水準1−87−16]滅[#一]。至[#下]本國最爲[#二]精美擅長[#一]之學術技能禮教風俗[#上]。則尤爲[#二]寶愛護持[#一]。名曰[#二]國粹[#一]。專以[#二]保存[#一]爲[#レ]主。
[#ここで字下げ終わり]

とあるが、是を見ても國粹といふ熟語が、元來我國に來た支那留學生などが、本國に輸入したもので、支那にはこれに適當する言葉がないから、有名な新名詞嫌ひの張之洞さへ之を用ゐた事が分る。又近來の支那人に國寶などいふ語を用ゐるものがある。國寶の二字は古く經典に見え、『親[#レ]仁善[#レ]鄰國之寶也。』『口能言[#レ]之身能行[#レ]之國寶也。』など其例少なくない。又其中には今日我國に用ゐる語の意味と同じきものもあるが、矢張り是の語も我國より輸入したものに相違ない。
 さて支那人が國粹保存など唱ふるに至つたのは、近時西洋の文明が盛んに輸入され又歡迎さるゝやうになつてからの事である。勿論支那に西洋の學問技藝の傳つた起源をいへば決して新しい事でない。かの明萬暦より清雍正時代にかけて、利瑪竇(Matteo Ricci)龍華民(Nicolas Longobardi)湯若望(Adam Schaal)南懷仁(Ferdinand Verbiest)のゼシュイット僧等が支那に來て、宗門のことは勿論、天文暦算輿地機器の方面に關し、多くの著述をなし、西洋の文明を輸入した事は顯著な事實で、彼等の著述せし書目を見た丈でも、其熱心なのに驚くのである。又支那人の方でも、彼等が天文暦算に秀でた事を認め、清朝の官制にも欽天監監正即ち天文臺長ともいふべきものは、滿一人西洋一人を以て之れに充つることに規定され、殊に康熙帝の如きは西洋の學術に注意し拉丁文字迄に通じて居たといふ話である。併し當時の支那人が、西洋の文明に對する考へは、唯彼等が天文暦算等の技藝に秀でゝ居るから、其長處だけを利用するといふ位のことで、勿論西洋の文明が自國の文明より同等若しくは其以上のものであるなどいふ考は持たなかつた。又實際公平に論じても、當時西洋文明の程度が支那に優つて居たとも思へない。然るに其後西洋の文明は愈※[#二の字点、1−2−22]進歩し來ても、又鴉片戰爭とか英佛同盟軍の北京侵入などあつて、種々の點に於て西洋文明の價値を知る機會に接し少なくとも其畏るべきことを知る機會に接したれど、支那人が自國の文明に對する自負心は、毫しも動搖することなく、以て近年に至つた。尤も近年の事ではあるが、曾國藩李鴻章一二達識の士は略※[#二の字点、1−2−22]西洋の事情を解し其文明を輸入するの必要を唱へ、同治十年兩人連銜して聰頴なる子弟を選び、西洋に留學させんことを請うた。同治十年は我明治四年に當るから、我國初期の留學生が西洋へ往つて居た時代と餘り變りはない。又國中でも、福建の船政學堂、江南製造學堂、南北洋水師學堂など、西洋の學術を授くる處はあつたけれども、其數も極めて寡なく、新學を云々する人でも、其西洋の文明を喜ぶの程度は、到底我明治の西洋文明鼓吹者に及ぶべきものではなかつた。
 然るに日清戰爭となつて、中華を以て自誇つて居た支那が負けたから、漸く舊來の陋習を守つて居ては、列國競爭場裡に立つことは出來ぬ。果して富強の實を擧ぐるには、日本の如き態度を以て西洋文明を採用せねばならぬといふ考が盛んになつて變法自強[#「變法自強」に白丸傍点]の語が朝野到る處に唱道され、程なく獨逸の膠州灣占領となつてから彼等が國運に對する危懼の年は愈※[#二の字点、1−2−22]甚しかつた。それから康有爲梁啓超等の新學派が是機に乘じて朝廷に用ゐられ官制の上から變法が行はれたけれども餘り過激であつたのと、康梁の學術、及び其資望が足らない種※[#二の字点、1−2−22]の原因から反動が起り、一旦やりかけた改革も未だ幾ならずして中止され、中止されたのみならず、守舊派其勢力を恢復して排外熱盛んとなり北清事件に至つて極まつた。まだ此時代まで國粹などいふ語はなかつたけれども、要するに急激な西洋文明の侵入に對して、國粹主義が極端に發動したものと見ても差支ない。然れどもこれは本《ホン》の一時で、聯軍進城兩宮蒙塵等の事があつた爲め愈※[#二の字点、1−2−22]古來の陋習を破り、西洋の文明を採つて富強を圖るの必要を感じ、從來康梁の議論には不贊成であつた人も、漸く穩健着實な改革意見を發表し、君臣一意、諸種の改革を實行した。が、時勢は彼等を驅つて益※[#二の字点、1−2−22]其範圍を大ならしめた。單に教育の方面から云つても科擧を廢し學堂を興し又留學生を東西兩洋に派遣するなど、誠に盛んなものであつた。
 かく清國朝野が西洋の文物を尊重し、之れを採用するに汲々たる時に當り、古來自國の學術禮教に對して如何なる態度を取つて居たか。吾人は明に二の潮流を認むることが出來る。即ち一は極端な新學心醉者であつて、彼等は支那固有の學術は價値ないものだから、宜しく之れを全廢すべしといひ、聖經賢傳中にある中國の禮教に對して懷疑の立場にあつた。吾人は嘗つて支那新聞に或日本の倫理學教科書の飜譯が出た時の廣告文に今や支那に於て舊道徳已に衰へて新道徳將に興らんとしつゝあり、西洋の倫理學説に耳を傾けんと欲する人士は必ず一本を購ひ坐右に備へざるべからずといふ意味の文句があつたのを見た。また支那從來の風俗として女子は中饋を掌つて、外事に干與せざるを美徳としてあつたが、現今の女學生などは、中※[#二の字点、1−2−22]そんな奴隷根性を持ぬと主張する。支那の新聞を見ると、近來は世界婦人會などを組織する女士があつて廣く世界の婦人と智識を交換し互ひに聯絡をとつて女權の擴張を圖るといふ樣な趣旨書を發表して居る。彼等は勿論從來の良妻賢母主義などには滿足せぬ。議會も開けぬ前から婦人參政權を得るの運動でも仕兼ねまじき權幕である。然るに政府の當局者で勿論均しく進歩的の傾向があつても支那の學問が根底となつて居る連中はこの風潮に對して危懼の念を抱き一方には種々の改革をして新政を布くと同時に國粹保存と云ふことを、矢釜敷言出した。即ち支那に於いて奇怪な現象といふべきは、此等の所謂進歩派、開通派の連中が同時に大なる國粹保存者であることで、之を我維新の初に、當路の諸公及び民間の識者が總べての舊物を破壞することを務めたのと比較したら大いな差異を發見するであらう。
 予輩は先づ教育の方面に就き、國粹主義が如何なる具合にあらはれたかを見よう。光緒二十九年五月即ち我明治三十六年、北清事件のあつてから僅四年目に、管學大臣張百熙、榮慶及び湖廣總督張之洞の三人が勅命を奉じて大學堂以下各省諸學堂の章程を釐定し十一月に裁可を得た。其後多少の變更はあつたかも知らぬが、現今支那の諸學堂は之に本づいて立てられて居ると見て差支ない。そして能くこの章程を見ると中々面白い事がある。即ち初めに全國學堂總要といふものがあつて學堂教育の心得を示してあるが、第一に學校では最徳育に重を置き、教員たるものは授業に當り隨時指導し、曉すに尊親の義を以てし、一切の邪説※[#「言+皮」、181−17]詞は極力排斥しなくてはならぬとある。又中小學は學問の根底を作る處だから、學科のうちにても殊に讀經に重を置き以て聖教を存すべしといひ、其説明に「外國學堂有[#二]宗教一門[#一]。中國之經書。即是中國之宗教。若學堂不[#レ]讀[#二]經書[#一]。則是堯舜禹湯文武周公孔子之道。所謂三綱五常。盡行[#二]廢絶[#一]。中國必不[#レ]能[#レ]立[#レ]國矣。學失[#二]其本[#一]則無[#レ]學。政失[#二]其本[#一]則無[#レ]政。其本既失。則愛[#レ]國愛[#レ]類之心。亦隨[#レ]之改易矣。安有[#二]富強之望[#一]乎。」云々とある。それから文學の方面でも支那文學が五大洲文化の精華たることを述べ、之を保存するは國粹保存の一大端で、如何に新學に長じても、本國の文章を綴り自由に思想を發表することが出來ぬなら、學問は何等の役にも立たぬ。官吏となつて奏議公牘さへも書けなかつたら、どうであるといつて居る。支那は所謂文字の國であつて、文章に用ゐる語は雅馴を以て主とする。然るに新學が流行するに從ひ、我國で製造された生硬な熟字が盛んに支那に入り、新名詞といつて彼國人士に歡迎されて居る。眞正に新學をした事のないものでも、文章や談論中に此等の熟字を使用して如何にも新學家らしき顏をするものが非常に多い。支那で新名詞を使ふ人といふ言葉がある。是れは恰も我國の高襟《ハイカラ》と同意義に用ゐられて居る。學堂總要には「外國の名詞を襲用することを禁じ、以て國文を存し、士風を端しくすべし」とある。これは重に張之洞の意見に本づいたものと思はれるが、其説に凡そ專門の熟語は、其本字に從つて之を用ゐるより外に致方はないけれど、日本に於ける通用名詞で、強いて用ゐるに及ばぬものを剿襲するのは、國文に害を及ぼし、又徒に輕佻浮薄なる少年の習氣を長ぜしめ、其害不少によつて、學堂に於て之を嚴禁すべしといふのである。少し話が横路にそれるけれど、其の下に所謂新名詞を列べて區別して居る。即ち第一は卑俗にして雅馴ならざるもので國體、國魂、膨脹、舞臺、代表等である、第二は支那でも從來使はないことはないが、意義が違ふもので犧牲、社會、影響、機關、組織、運動等は是である。第三は意味の分らぬ事はないけれども、必ず使用せぬとも宜しいもので、之は報告、困難、配當、觀念等の熟語である。學堂でかゝる禁令を出したけれども、中々實行は出來ぬ。又之を禁ずるなどいふ事は、抑々無理である。併し又一方より考ふれば「吾輩は應さに二十世紀の舞臺に活動して國家の膨脹を圖るべし」とか「生命を犧牲にして中國魂を發揮すべし」などいふ語の入つて居る文章を見せらるゝと、吾輩日本人でも支那古典的趣味の上から甚だ感心は出來ぬ。かゝる文章を讀むと誠に恐縮するが、支那の新學家は却て得意そうにやつて居る。これは熟字の使用に就いて言つたことだが、今一つは文章の構造で外國文と支那文の構造は全く違つたものであるのに、若し外國文直譯體など用ゐたら、それこそ大變で國文は其爲め純粹な形式を失ひ、中國の學術風教も亦將さに隨つ
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