て倶に亡ぶべしとある。要するに國粹保存の思想はこの總要に能く表はれて居る。
 次に述べたいのは學制である。前に申す如く張之洞等の奏定した學堂章程によると京師大學堂は經學科、政法科、文學科、醫科、格致科、農科、工科、商科の八分科大學より成立つのであるが、經學が一の分科大學をなし然かも首位に列して居る所などは、誠に支那の特色を發揮したものである。さうして其内亦た周易、尚書、毛詩、春秋左傳、春秋三傳、周禮、儀禮、禮記、論語、孟子、理學の十一門に分かれ、學生は其一を選んで專修する。全く西漢一經專門の學風を採つたものである。政法科は我法科大學に當り、西洋の法律政治經濟を授くる所なれど、矢張政治科には第一に大清會典要義といふ課目があり、又法律科にも大清律例要義がある。それから醫科大學にも、醫學科に中國醫學といふ課目があつて第一學年には毎週六時間、第二學年には同じく三時間となつて居るが、藥物學科にはまた中國藥材といふがあつて、第一學年、三時間課することに成つて居る。それから文科大學はどうであるか、第一我國の文科大學と違ひ、哲學科といふものは全くない。是れも恐らくは張之洞の意見で定められたものであらう。一體之洞の考へでは、哲學といふものは其説く所高遠にして實用に切ならざるもので、其上言はゞ中國諸子異端の學の如きもので、遣り樣によつては危險思想を養成するの虞があるから、置かぬ方がよいといふのである、而して文科の中にも矢張中國史學、中國文學などが重な學科となつて居る。我國の大學は蕃書取調所から漸次發達したもので、西洋の學問が主となり國語國文國史漢學などは寧ろ後に盛んとなつた。支那の大學は創立の時代から自國の學問を主として居る、是れは大なる差異である、茲に面白き談がある。支那新聞の記する所に據れば、經科大學が開始されたとき、東西洋人の入學を志望するものが段々あつて、それ/″\の公使館から學部に照會したら、學部では協議の上、經學は中國固有のものなれば、外國人でも希望の向は入學を許るすべし。但其他の大學は、草創の際、諸事不整頓なれば暫く拒絶すといふ囘答をしたとある。該報の記者は東漢明帝のとき經學が昌明で、匈奴の子弟まで遠く來つて入學したと云ふ談は史乘に見えて居るが、外國人の經科大學入學は明帝以後絶えてなかつた盛事である。若し張文襄([#ここから割り注]文襄は之洞の謚で此時は已に亡くなつて居た[#ここで割り注終わり])が地下でこれを聞かれたら、斯ることが有らうと迄は思はなかつたといつて喜ぶだらうと得意さうに書いてある。それから優級及び初級師範及中學堂の課目を檢べて見ると、人倫道徳([#ここから割り注]初級學堂では修身といふ[#ここで割り注終わり])といふものがあつて、支那の經典を本として實踐道徳を教ゆる外に、羣經源流([#ここから割り注]初級學堂では講讀經講經といふ[#ここで割り注終わり])といふものがあり、又其上に中國文學がある、而して其時間は下級の學堂になればなる程多い。此等學制の點から見ても當局者の考が能く分るが、之を一層明白にしたものは光緒三十二年([#ここから割り注]明治三十九年[#ここで割り注終わり])三月の教育宗旨に關する上諭である。
 それは學部の奏議に本づいて發せられた者であるが、原奏の趣意は學部が新に立てられたに就いては、先づ教育の宗旨を天下に宣示して、風氣を一にし人心を定むべしとて、其要目を擧げたのであるが、一は中國の固有する所にして益これを闡明すべきもの即ち忠君[#「忠君」に白丸傍点]と尊孔[#「尊孔」に白丸傍点]の二箇條である。他は中國の缺點で、今より宜しく戒めて其振作を圖るべきもの、即ち尚公、尚武、尚實の三箇條である。今唯忠君[#「忠君」に白丸傍点]、尊孔[#「尊孔」に白丸傍点]の二箇條に就いて見ると、例を獨逸と日本に取つて、「近世崛起之國。徳與[#二]日本[#一]稱[#レ]最矣。徳之教育。重在[#レ]保[#二]帝國之統一[#一]。日本之教育。所[#二]切實表章[#一]者。萬世一系之皇統而已。」などといひ、又孔子の道の偉大なることを説き「日本之尊王倒幕。論者以爲[#二]漢學之功[#一]。其所謂漢學即中國聖賢之學也。」といつて居る。一體支那人が孔教を云々するときには、必ず我國を引合にして居る。同年に湖北按察使梁鼎芬が、聖人の郷たる曲阜に曲阜學堂を立てんことを請ふ疏にも、「日本講[#二]孔子之學[#一]。有[#レ]會有[#レ]書。其徒如[#レ]雲。其書如[#レ]阜。孔教至爲[#二]昌盛[#一]。我中國尊[#二]崇孔子[#一]數千年。不[#レ]能[#レ]過[#レ]之。可[#レ]耻可[#レ]痛。」とある。其書如[#「其書如」に傍点][#レ]阜[#「阜」に傍点]も餘り夸大に失す。而して其内にはポケツト論語式のものが多いと思へば、却つて此方から可耻可痛と言ひたい位であるが、先づ彼等の見る所はさうである。其外提學使等が我國を視察し歸つて出した奏摺を檢べて見ると、多く日本の孔教に就いて言つて居るが大同小異なれば此に略する。
 兎も角前に述べた樣な次第で、學部の上奏に本づき上諭が降り、教育の方針天下に宣布された。それから今一つ大切な事件は孔子を大祀に升ぼしたことである。一體支那で國家の祭祀は大祀、中祀、羣祀の三つに分れ、大祀は天地、太廟、社禝に限られ、孔子は中祀に列して居たのを、西太后の懿旨によつて大祀に升ぼした。從來孔子は萬世の師表として歴代より崇敬されて居たけれど、之を天地と同格に祭つた例を聞かぬ。これも孔教を尊び國粹を保存すると同時に、所謂邪説※[#「言+皮」、185−5]詞を排斥するといふ意思に出たものである。又同年十二月の上諭にも學問は中學([#ここから割り注]支那の學問のこと[#ここで割り注終わり])を以て主とし西學を以て輔とすといふことを明言してある。國粹主義が教育の方面に於て如何に表はれてゐるかを見ることは先づ上述の通りである。[#地から1字上げ](明治四十四年七月、藝文第貳年第拾號)

          二

 予輩は本誌前々號に於て、支那最近の國粹主義が教育制度の上に顯はれた點を述べた。然るに學部などではかく危險思想の蔓延を防がんとして、教育宗旨に關する上諭を奏請したり、其他種々の方法を以て、舊來の禮教を維持しようとして居るのに、又一方法部では新法典の編纂に從事して居たが、光緒三十二年に刑事民事訴訟法、其翌年には刑法の草案が出來て上奏に及び、朝廷ではこれを督撫將軍に※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]はし、其意見を徴せられた。この法典は申す迄もなく、治外法權を撤去するのが目的で、實際人民の程度をも顧みず、又それが丸るで東西諸國の法律を飜譯したもので、中國固有の道徳や習慣に反對する事が多いといふので、各方面から非難の聲が高まつた。先づ刑事民事訴訟法に對する非難の點を二三擧げようなら、例せば第一百三十條にかういふ規定がある。即ち凡そ民事の裁判で、被告の敗訴となり、原告に交すべき金錢若しくは訴訟費用を出す能はざるときは、裁判所は原告の申請を經たる後、被告の財産を査封《サシオサヘ》するを得。然れども左列の各項は査封備抵の限りにあらずとて、一、本人妻所有之物、二、本人父母兄弟姉妹、及各戚屬家人之物、三、本人子孫所[#二]自得[#一]之物を擧げて居る。これに就き、張之洞などの意見によれば、支那從來の道徳では親親といふ事が一番大切で、祖父母父母存生のうちに、其子孫なるものが、別に戸籍を立て、財産を分けるといふ如きは、非常に惡いことゝ考へられて居る。これは獨り道徳上許されざるのみならず、舊律では之を罪して居る。大清律例に十惡の條があつて、不孝は其一であるが、不孝といふ所の細注に分産を以て其一例としてある。然るに新法典によると、明に父子兄弟夫婦の異産を認めて居るは不都合極まる話であるし、又實際の處、今日支那の社會では、一家の財産中で、これは戸主のもの、これは父母のもの、妻のものと區別されて居ないから、此の規則は獨り數千年養成し來つた善良の風俗を破壞するのみならず、實際に行ふことは困難である。それから新法典には辯護士の規定があつて、凡律師倶准[#下]在[#二]各公堂[#一]。爲[#レ]人辨[#上レ]案としてあれど、從來支那では一般に訴訟といふもの餘り善い事となつて居ない、又實際地方では人の爲め訴訟に干預するものは訟師若しくは訟棍など稱する公事師であつて、此等は無智な人民を煽動して訴訟を起させ、これに藉つて金錢を貪ぼり社會から蛇蝎の如く嫌はれて居る。東西文明諸國の律師は皆學校で專門の智識を養つたもので、又一定の試驗をして合格者より採用するから、何等の弊害はないけれど、支那現在の程度では、學問あり品格ある律師を得ることは到底不可能である。結局この制度を實行せんとせば、唯從來訟師、訟棍などいつて社會の擯斥をうけて居た無頼の劣紳に、種々の惡事を働く機會を與ふるに過ぎず、又兩造に貧者と富者とあつたら、富者は律師に依頼するを得れども、貧者は親ら公堂に到り口舌を以て之と爭はざるべからず、貧者は直にして敗れ、富者曲にして却て勝を得るに至らん。又新法典には陪審制度を採つて居るが、この制度は英吉利に※[#「日+方」、第3水準1−85−13]まつたもので、英人は公徳を重んずる國民であるから、この制度も益あつて損ないかも知れぬが、法徳諸國のこれに※[#「にんべん+方」、第3水準1−14−10]ふものは、已に流弊の多きに苦しむ次第で、日本さへまだ此の制度を用ゐるに至らぬ。況んや前に述ぶる通り、西洋人の如く法律思想が發達して居らず、訴訟を以て罪惡の如く考へ、公堂を以て紳士の妄に入るべき所にあらずとしてある支那で、この制度が理想通りに行はるゝ筈はない。體面を重んずる人士ならば、縱令責るに義務を以てし、科するに罰金を以てしても、寧ろ甘じて懲罰を受け、陪審員たるを承諾することなかるべしと論じて居る。張之洞の駁議は五十餘條に渉つて居るが、要するに法典は自國の民情風俗習慣歴史を參酌して實際に合する樣に編纂せねばならぬ。或論者は法典さへ東西洋諸國の通りのものが出來たら、治外法權は一朝にして撤せらるゝと思ふけれども、それは間違つた意見で治外法權の撤せらるゝと否とは一に國家兵力の強弱、戰守の成效如何の問題によるといつて居る。こんな議論は張之洞に限つた譯ではない。其他督撫將軍の多くからも意見書が出て居るが、要するに新法典中の多くの箇條は支那從來の民情習慣に違背して居るから、遽かに行ひ難いといひ、殊に父子兄弟の産を分つことを認めて居ることは、家族主義に本づいた支那の道徳と相容るゝ能はざる旨を論じて居る。
 それから新刑法の編纂についても、同樣の議論が出た。修訂法律大臣沈家本等の上奏文には「是編修訂大旨。折[#二]衷各國大同之良規[#一]。兼採[#二]近世最新之學説[#一]。而仍不[#レ]戻[#二]乎我國歴世相沿之禮教民情[#一]。」云々と言つて居るけれども、この草案を憲政編査館から内外各衙門に※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]はし、其意見を徴した所が、種々な反對論が出た、而して尤辨難の鋒が強かつたのは學部であつた。學部の覆奏を見るとかうある。一體臣が部は教化を司どる所であるが、教化と刑律とは互ひに相因るものである。然るに新律を査べて見ると、我國の禮教と相反する所が甚多い。これは日本より招聘した起草委員の原文を其儘採用して漢文に飜譯した迄であるから、中國の情形に適合しない譯であるとて、不都合の點を指摘して居る。學部以外直隷、兩廣、安徽の督撫等の駁論も政治官報に掲載してあるが、一々述ぶるに及ばぬ、今唯學部所論の要點を擧ぐると、第一、中國舊法律では尤君臣の倫を重んじてある。故に謀反大逆等の大罪を犯すものは、首從を問はず凌遲の刑に處することになつて居たが、新刑法では政府を顛覆し、土地を僭竊し、或は國憲を紊亂するを目的とし暴動を起すものは、首魁は死刑又は無期徒刑に處すとある。即ちかゝる大罪でも必ずしも死刑と限つてない。又凡そ太廟宮殿等に侵入し、箭を射、彈を放つものは、
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